サイモン・ボリバー・バックナー・ジュニア(、1886年7月18日 - 1945年6月18日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人。最終階級は大将。太平洋戦争末期の沖縄戦において連合軍最高指揮官たる中将として従軍・戦死。これはアメリカ軍において、第二次世界大戦で最高位の階級(中将)で戦死した軍人であり、また2014年現在においても唯一の存在である1886年、ケンタッキー州にて南北戦争時の南軍の将軍であったサイモン・B・バックナーの息子として生まれる。父は彼の誕生の翌年から1891年までケンタッキー州知事を務めた。幼少時はマンフォードビル近くのケンタッキー州西部の農村地帯で育ち、セオドア・ルーズベルト大統領の推薦によってウエストポイントに入学。優秀な成績で卒業後、米比戦争に従軍し第一次世界大戦時には少佐として勤務していた。戦間期にはウエストポイントに戻って教官、役員を務めた。こうした後方勤務の時期を経て、第二次世界大戦(太平洋戦争)が勃発すると、アラスカ軍司令官としてアリューシャン戦線に従軍、前線に復帰し准将に昇進した。1943年にはダッチハーバー、アッツ島、キスカ島での戦いの功績から少将に昇進。1944年7月には陸軍と海兵隊の混成部隊である第10軍の編成のためハワイに転任した。時期は不明ながら、このころ中将に昇進している。当初第10軍の任務は台湾への侵攻であったが、どういう理由によるものかこの命令は取り消され、バックナーは沖縄侵攻の準備をするよう命じられた。それまでアッツ島の戦いを除き太平洋戦線での主要な戦闘に参加していなかった彼が沖縄戦の指揮を執ることになった背景には、上陸作戦のエキスパートであるホーランド・スミス海兵隊中将が軍上層部に嫌われていたという事情が存在する。こののちの沖縄戦はアメリカ軍史上最も長く血なまぐさい戦いとなることになるが、バックナーはそのことを知る由もなかった。1945年、バックナーは沖縄方面連合軍最高指揮官たる第10軍司令官としてアイスバーグ作戦を指揮。海空からの事前攻撃および、3月26日の慶良間諸島上陸を経て、4月1日に陸軍2個師団および海兵隊2個師団からなる第10軍主力部隊は沖縄本島中西部に上陸。以降、2ヶ月以上に渡り第10軍は日本陸軍第32軍(司令官・牛島満中将)を基幹とする日本軍沖縄守備部隊と激烈な戦闘を展開した。しかし6月18日、バックナーは指揮下の第8海兵連隊を喜屋武半島真栄里の高台の前線において視察中に戦死した。記録によるとバックナーは日本陸軍に識別されており、バックナーが前線視察に訪れると日本軍の砲火が激しくなったため将兵には歓迎されていなかったという。最期となった6月18日の視察時においては、ヘルメットのマーキング(階級章)から高級指揮官であることを識別・狙撃されることを警戒したクラレンス・R・ウォレス大佐、ハリー・M・サルキシャンら部下の進言により途中で一般兵士用の無地のヘルメットに交換したが、すでに日本陸軍の現地砲兵部隊はバックナーを識別しており、重榴弾砲による砲撃が開始され砲弾はバックナーの立っている付近に集中した。砲撃によりバックナーは胸部に破片を受け、近くの救護所に運ばれたものの既に瀕死であり、手術台の上で死亡した。この戦死状況については「日本陸軍の野戦重砲兵第1連隊第2大隊の九六式十五糎榴弾砲が放った砲弾がバックナーの居た観測所の真上で炸裂、えぐられた岩片が胸部に当たり10分後に絶命」が、アメリカ軍公式資料(戦死記録)における定説である。日本軍のこの野戦重砲兵第1連隊の元将校による証言も存在する。なお、このほか「日本陸軍の小野一等兵の小銃による狙撃説」があるが、厚生省においては該当する「小野一等兵」の存在は確認されておらず、また「一式機動四十七粍砲による砲撃説」もあるがこちらは根拠不明である。戦死後、第10軍はロイ・ガイガー海兵隊少将が代理として指揮権を代行、23日にはジョセフ・スティルウェル大将が後任司令官となっている。また、同23日に日本陸軍第32軍司令官牛島中将が自決、翌24日に第32軍隷下の残存基幹部隊は玉砕し沖縄における組織的な戦闘は終了した。バックナーの遺体は沖縄に埋葬されたが、戦後、故郷ケンタッキー州のフランクフォート墓地に改葬された。1954年にはその功績が認められ大将を追贈された。1985年には日本軍関係者などの手により戦死地に慰霊碑が建立された。
出典:wikipedia
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