古賀 さと子(こが さとこ、本名:古賀達子(読み同じ)、1940年10月14日 - 1996年5月25日)は、日本の元女性歌手、元女優。東京都板橋区出身。上野学園高等学校音楽科卒業。昭和20年代から30年代には童謡歌手や子役として人気を博していた。ヒット曲に『子鹿のバンビ』『ピーコポン』などが知られている。ピアノ調律師の父を持つ、四人姉妹の三女。姉の一人は田原総一朗夫人でエッセイストの田原節子である。さと子が小学校2年生のとき、父のピアノ調律師仲間の紹介で「さくら子供会」という合唱団に入る。その後作曲家保田正に師事し、1949年ビクターから「動物あそび」でデビュー。大きなリボンがトレードマークの愛くるしい姿でたちまち人気者となり、1951年5月「ひばりと麦笛」、1951年10月「ママのおひざ」、1952年3月ディズニーアニメ「バンビ」をモチーフとした「子鹿のバンビ」など大ヒットを次々飛ばす。朝日放送「クレハホームソング」で「こけしのちびっこ」を歌い、芸術祭童謡賞を受賞。その後女優としても活躍の場を広げ、1954年に松竹と契約し、「あゝ洞爺丸」「お母さんの黒板」「オーケストラの姉妹」などに出演する。「朝やけ雲の決闘」を最後に松竹を退社するが、1971年に当時東京12チャンネルのディレクターであった田原総一朗が監督を務める「あらかじめ失われた恋人たちよ」に出演する。以後はシャンソン歌手として、舞台などでライブ活動をするようになるが、1970年代半ばごろに歌手活動を休止する。活動休止からしばらく後、肝臓を患って入退院を繰り返すようになり、その結果院内感染による慢性肝炎と宣告された。抗生物質の効かない重い症状のものであった。具体的にいつ頃からかは不明だが、この後長い療養生活に入ることになる。長田暁二の著書によると遅くとも1990年代前半からこの状態だったという。1996年5月に容体が急変し、入院先の病室で息をひきとった。55歳であった。墓所は東京都小平市の小平霊園。第2次大戦中、さと子が四才のころ、疎開先の納屋の家の窓から童謡をよく歌っており、道行く人たちが立ち止まってその可愛らしい歌声に聞き惚れていた。さらに身振り手振りをつけながら歌うと、たちまち拍手が沸き起こっていた。それを見た母親はさと子を叱ることもあったが、一緒に居た姉の節子が「はずかしくないの?」と聞くと「みんなにきいてもらえてすごくうれしい!」と目を輝かせながら答えていたという。また、さと子の父はかつて歌手を夢見ていたこともあってか、さと子の才能にいち早く気付き、自宅のピアノでさと子に個人レッスンをしたこともあった。ビクターに移籍後、オペラ劇『夕霧』に出演が決まり、さと子は独唱のシーンの大役を務めることになった。舞台を見た父は見事に歌いきったさと子の姿を見て感激し、何度も「うん、うん」と頷いたという。昭和20年代半ばから後半にかけて大変な人気を集め、ラジオやテレビに出演するなど多忙な日々を送り、学校の講堂、はたまたデパートの屋上の特設ステージに出るとたくさんのファンがつめかけ、黄色い声援が飛び交ったという。当時の少女向け雑誌ではグラビアに多数取り上げられ、人気投票には松島トモ子、近藤圭子とともに常に上位にあがっていた。昭和40年代からさと子はシャンソン歌手に転向していた。しかしこの頃にも童謡のオファーがあり、当のさと子は嫌がって断り続けていた。そのためスタッフと喧嘩をすることもしばしばあったという。当時は全共闘全盛の時代でさかんにさまざまなコンサートが開かれており、その中で童謡は「癒し」として受け取られていた。その代わりに反戦歌のフォークソング「花はどこへいった」などを披露したことがある。姉・節子の著書『最期まで微笑みを』によると、付き添いの者から聞いた話として、さと子が亡くなる直前、ナースステーションに近い病室に運び込まれたとき、「ここはどこ? あなたはだあれ?」と柔らかな声で歌うように語りかけたという。これが最期の言葉だった。当時の節子は多忙を極めており、あまりさと子の見舞いに行くことができず、件の話を聞いて「もっと沢山話をしていればよかった」と後悔したという。他多数。上記の曲はいずれも三木鶏郎が作詞・作曲を手掛けている。
出典:wikipedia
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