千昇 秀貴(せんしょう ひでき、1983年10月14日 - )は、モンゴル国ウランバートル出身で式秀部屋に所属していた元大相撲力士。本名はエンフバートル・バヤルバト(モンゴル語キリル文字表記:)。身長181cm、体重139kg、血液型はO型。最高位は東十両14枚目(2012年3月場所)。好物は寿司。2000年に7人のモンゴル人と共に来日した。その7人の中で最も早く入門の内定を受けるなど当初の期待度は高かった。この時に共に来日したモンゴル人の中には、横綱・白鵬や元前頭・猛虎浪がいる。そして実業団の摂津倉庫相撲部で相撲の稽古を積んだ後に式秀部屋に入門し、2001年3月場所に初土俵を踏んだ。初土俵の同期には前頭・翔天狼がいる。「千昇」という四股名は、師匠である8代式秀親方(元小結・大潮)が「通算勝ち星964勝を記録した自分を超えてほしい」との願いを込めて、「1000勝」という言葉と掛けて命名した。序二段へ昇進した同年7月場所では負け越したものの、序ノ口へ陥落した翌9月場所では6勝1敗の好成績を挙げて優勝決定戦まで進出した。6人による優勝決定戦では2回戦の巴戦で同じモンゴル出身の大翔地(芝田山部屋)に敗れて優勝は逃した。入門から3年半が経過した2004年9月場所において5人のモンゴル人力士と共に幕下へ昇進し、その後は幕下に定着した。2008年11月場所には7戦全勝の成績を挙げて優勝決定戦まで進出するものの、十両昇進を確定的にしていた琴国に敗れて、ここでも各段優勝を逃した。2005年5月場所からは四股名を「大想源」(だいそうげん)と改名するが、2007年5月場所に再び四股名を「千昇」へと戻した。自己最高位となる東幕下4枚目の位置まで番付を上げた2009年1月場所では、十両の土俵にも上がり北桜と安壮富士と対戦したがいずれも敗れ、3勝4敗と負け越した。同年5月場所において7番相撲の春日国(春日山部屋)戦で右膝の靱帯を断裂する重傷を負い、翌7月場所から3場所連続して休場し、序二段にまで番付を落とした。西序二段31枚目の位置で迎えた2010年1月場所では6勝1敗と大きく勝ち越し、三段目に復帰した翌3月場所では7戦全勝の成績で三段目優勝を果たした。翌5月場所に幕下へ復帰し、西幕下14枚目の位置で迎えた2011年11月場所では6勝1敗の成績を挙げて優勝決定戦へ進出し、優勝決定戦を制して初の幕下優勝を果たした。自己最高位となる西幕下3枚目の位置で迎えた2012年1月場所では、6番相撲終了時点で4勝2敗とし、あと1番勝てば悲願の関取昇進という時点で、デビューから27戦無敗・全勝なれば史上最速で各段1場所通過となる佐久間山との7番相撲が組まれた。取組では佐久間山に終始上手を与えずに上手投げで破り、佐久間山の記録を阻止すると同時に、自身も式秀部屋が創設されて以来初の関取昇進に向けて価値ある白星を挙げ、翌3月場所において新十両への昇進を果たした。初土俵から所要65場所での新十両は、外国出身力士としては史上1位のスロー昇進記録となった。その3月場所では4日目から6連敗と振るわず、9日目の徳真鵬との対戦で右母指基節骨骨折で全治6週間という重傷を負って10日目からは休場し、2勝8敗5休と大きく負け越して1場所で幕下へと陥落した。2012年5月場所での全休を経て、翌7月場所からは幕下で4場所連続して勝ち越しを決め、2013年3月場所において十両へ復帰した。しかし、その3月場所では4勝11敗と大敗し、翌5月場所では再び幕下へ陥落した。以降は関取に戻ることはなく、幕下に在位していた2015年1月場所千秋楽に現役引退を表明した。同年2月14日に東京都新宿区内のホテルで断髪式を行った。本人は現役中の2013年秋にモンゴル国立農業大学の通信制課程に入学しており、引退後は学業に励みながら農業関連の事業に従事する予定だという。
出典:wikipedia
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