白山公園(はくさんこうえん)は、新潟島の中央部、新潟県新潟市中央区一番堀通町地先にある公園である。1873年に布告された太政官布告により、日本で最初に開設された25箇所の都市公園のうちのひとつであり、日本の都市公園100選にも選ばれている。白山神社東側に園地を有する。南側は空中庭園を経由して信濃川やすらぎ堤とも接続している。園地は現在、約7.0haの広さを有する。江戸時代の日本では、誰でもいつでも自由に利用することができる公園のような所はほとんど無く、明治初期でも公園は外国人居留地である横浜と神戸にあるのみだった。白山公園がある白山神社境内は松原が広がり、信濃川越しに弥彦山、角田山、越後山脈を眺望する江戸時代以来の景勝地であり、白山祭などでにぎわう新潟町民の行楽地でもあった。さらに境内地は江戸時代には無税地だったため、1871年(明治4年)1月の太政官布告によって官有地になっていた。1872年(明治4年)5月に二代目新潟県令として赴任した楠本正隆は、新潟に赴任する以前は外務大丞として活躍し、開校場である新潟を開化の地として発展させるために公園を設けることにした。白山公園の工事は、1873年(明治6年)1月の太政官布告以前の1872年(明治5年)から始まっていた。太政官布告後、楠本は白山神社境内地に造園している「遊歩場」が布告の公園の条件に一致するとして大蔵省に申請した。1873年(明治6年)7月に建てられた「新潟遊園碑」で秋月種樹は公園の意義を説き、白山公園がヨーロッパの公園と同じ精神で作られていると称賛している。公園がいつ完成したのか、公園の竣工式、開園式などが行われたのかは不明。1875年(明治8年)12月付の楠本から後任県令永山盛輝への事務引継書には「現在の工事はほぼ終わった」とあるが、その後も整備工事は続けられた。1878年(明治11年)、明治天皇が新潟県を巡幸することが発表され、白山公園の一番の見どころである公園の縁を悠々と流れる信濃川と、その向こうにある弥彦山、角田山、越後山脈の眺望を見るための築山が築かれた。築山は蓮池の東端に設けられ、白山橋の参道を延長。「新潟遊園碑」が築山の上に移されて野立所が建てられた。この築山を作る際に使う土を掘った跡を整備したのが「ひょうたん池」であるとされるが、池がいつどのように造られたのかなどの詳細は不明。巡幸当日の9月17日午後。明治天皇は新潟県庁、新潟医学校、新潟学校、裁判所を訪れた後に勧業博覧会を見学し、公園に入り築山の野立所で休憩した。雨天のため山は見えなかったが、明治天皇は眼前の信濃川を眺めて帰宿した。この巡幸の後に、築山は「美由岐賀岡」と呼ばれるようになった。昭和初期に行われた信濃川両岸の埋立事業によって南側に造成された埋立地には陸上競技場、野球場、庭球場を擁する「白山総合運動場」が造られ、また庭球場隣に地元石油会社が建設した会館が市に寄贈され「新潟市公会堂」として開館した。1964年の新潟地震で液状化現象による噴砂などが発生し被災。園内の施設も損壊した。このうち老朽化した野球場は廃止され、跡地には震災義援金の活用策として「震災記念館」が建設される事となった。これが現在の新潟県民会館である。1970年代から80年代に掛け園内の施設は次第に老朽化が進み、また市政の交代などによりメンテナンスすら行き届かない時期があった。公会堂ではTHE BLUE HEARTSのライブ公演中に2階席が損壊するハプニングも発生した。1990年代に入ると老朽化した施設は淘汰された。また園地内を経由する川岸町通りは人工地盤下を経由するトンネルに経路を変え、南北の園地が一体となった。出典
出典:wikipedia
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