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京阪神快速

京阪神快速(けいはんしんかいそく)では、かつての鉄道省・日本国有鉄道(国鉄)および現在の西日本旅客鉄道(JR西日本)が、京阪神地区の東海道本線・山陽本線で運行している快速・新快速、ならびに前身である急行電車(関西急電)について、歴史に重点を置いて記述する。なお本項では、JR西日本による愛称路線名設定(1988年3月13日)以降の出来事については、北陸本線米原駅 - 長浜駅間と東海道本線米原駅 - 京都駅間については琵琶湖線、東海道本線京都駅 - 大阪駅間をJR京都線、東海道本線大阪駅 - 神戸駅間と山陽本線神戸駅 - 姫路駅間についてはJR神戸線で記述する。京都・大阪・神戸の関西3大都市を結ぶ東海道・山陽本線は、1934年の吹田駅 - 須磨駅間の電化により、電化前に運転されていた京阪神間区間運転の快速列車及び普通列車を継承して、「急行電車」と「緩行電車」(京阪神緩行線)が運行されるようになった。この急行電車は大阪駅 - 神戸駅間を結ぶ電車であったが、1937年10月の京都駅 - 吹田駅間の電化により、運転区間が京都駅まで延伸された。急行電車は太平洋戦争激化による戦時体制強化によって、1942年11月に一旦廃止されるが、戦後1949年4月に京都駅 - 大阪駅間で復活、6月には戦前同様神戸駅までの運転が再開された。1956年11月の米原駅 - 京都駅間の電化(東海道本線全線電化)までは京都駅–神戸駅間で運転されていたが、この米原駅までの電化と1958年の姫路駅までの電化によって運転区間が東西に拡大され、その後も電化区間の西進と客車普通列車の電車化によって運転区間が広がったことから、これまで担っていた京阪神緩行線との並走区間での速達列車としての役割に加え、中距離列車としての性格も帯びるようになった。この間の1957年9月には、「急行電車」の名称が運転区間の延長に伴って、既存の「急行列車」や「準急列車」との間で矛盾を生じたことから、名称を「快速電車」に変更した。その後現在に至るまで幾度か運転区間・運行形態の変更はあったが、基本的には、1964年の113系投入時点での運転区間(東端大垣駅–西端上郡駅・播州赤穂駅)の運行形態が踏襲され現在の快速の元となっていたが、大垣駅 - 米原駅の直通は2016年3月26日をもって廃止され現在に至っている。やがて快速の停車駅の増加に伴い、京阪神の連絡の面ではサービスが低下し、また上記の区間外では各駅停車のために時間を要した。そのため上記区間ではより停車駅を少なく、その区間外でも快速運転を行う新快速が誕生した。京阪神間は以前より私鉄が運転本数や乗客誘致施策などで優位に立ち、「関西は私鉄王国」といわれていた。特に距離の長い京阪間では、阪急電鉄(阪急)・京阪電気鉄道(京阪)が転換クロスシートを持つ特急料金不要の特急専用車を京阪間を無停車で運転していた。新快速の登場は平行する私鉄との乗客獲得競争によるものであったが、高い運賃(特に1976年11月の運賃値上げ以降)などにより私鉄に対して優位に立つことはできなかった。しかしJR西日本発足後は大都市圏輸送の改善に熱心に取り組むようになり、複々線の有効活用が可能になったことによる柔軟なダイヤ編成や、新型車両の積極的な投入、運転区間の拡大などを行い、並行する私鉄は一転して防戦に追われるようになった(#並行私鉄との競争を参照)。2016年3月26日現在、東海道・山陽本線系統の快速・新快速は、西は上郡駅・赤穂線播州赤穂駅まで、東は米原駅まで、北は北陸本線敦賀駅(福井県)まで運転されている。「京阪神快速」の名称は、ほかの運行系統と記述を区別するときに用いられることがあるが、実際の旅客案内に用いられるものではない。東海道・山陽本線の京阪神地区では、草津駅 - 西明石駅間が複々線となっている。このうち、草津駅 - 兵庫駅間は方向別複々線とし、線路の外側を外側線(列車線)と呼び、内側は内側線(電車線)と呼ばれている。草津駅 - 京都駅間では内外ともに最高速度130km/hであるが、京都駅 - 西明石駅間は外側線が130km/h、内側線が120km/hになっている。兵庫駅 - 新長田駅間で内側線が下り外側線を南側へ乗り越え、兵庫駅 - 西明石駅間は線路別複々線となっている。電車線(南側)は快速・普通が使用し、列車線(北側)は原則的に特急列車や貨物列車と新快速が使用しているが、朝ラッシュ時には、舞子駅・垂水駅・須磨駅を通過する快速も運転されている。新快速は西明石駅 - 京都駅間では原則外側線・列車線を、草津駅 - 京都駅間では多くが内側線を走る。昼間時は西明石・明石・尼崎・高槻で新快速・普通の乗り換えは階段での移動が必要である。(平日ラッシュ時は大阪・京都でも階段での移動が必要)外側線・列車線と内側線・電車線の使い分けは歴史的にも変化し、現在は効率的な運行のためにかなり複雑なものとなっている。快速の運転区間は、東側は京都駅を越え琵琶湖線へ直通し、高槻駅(朝ラッシュ時は京都駅) - 野洲駅・米原駅間と明石駅 - 加古川駅・姫路駅間では各駅に停車する「普通」として運転されている。大阪駅から東側は野洲駅・米原駅・長浜駅まで、西側は加古川駅・姫路駅・網干駅・上郡駅・播州赤穂駅まで運転されている。一部の快速は大阪駅を始発・終着駅としている。朝には北陸本線経由の近江塩津行き(平日のみ)や安土発の列車、草津線・湖西線(いずれも平日のみ)からの直通列車がある。草津線と湖西線から直通する列車は各線内は普通として運行される。JR京都線では全区間を快速運転(長岡京駅・高槻駅・茨木駅・新大阪駅のみに停車;高槻駅‐大阪駅間は外側線を走行)する列車もある。かつてはほぼ終日運転だったが、ダイヤ改正を重ねるにつれて運転時間帯は縮小し、始発から朝ラッシュ時にかけてのみの運転となっている。JR神戸線では列車・外側線(舞子駅・垂水駅・須磨駅は通過)を走行する快速が、平日は朝ラッシュ時の大阪・京都方面行きの全列車、土曜・休日は朝の上り大阪行き2本のみ設定されている。JR神戸線・京都線ともに、平日朝ラッシュ時は8分間隔で大阪駅に向けて運行されている。JR京都線で全区間快速運転する列車は兵庫駅で電車線に移り、須磨駅・垂水駅・舞子駅に停車する。逆にJR神戸線上り外側快速は高槻駅で内側線に移り、種別幕も「普通」に変更して運転している。日中からは高槻駅 - 西明石駅間で快速運転、高槻駅 - 野洲駅・米原駅間と西明石駅 - 姫路駅間は各駅に停車する「普通」として運転している。この時間帯の1時間あたりの本数は下記の通りである。緩急接続も行われており、高槻駅・大阪駅・芦屋駅・須磨駅で普通と、加古川駅で新快速と接続する。野洲駅では同駅止まりの新快速と接続し、朝晩には近江八幡駅・能登川駅でも緩急接続がある。また尼崎駅ではJR東西線 - JR宝塚線の快速列車と同じホームで接続する。大阪駅発着のJR宝塚線の快速列車との接続が計られている列車もあるが、朝ラッシュ時以外は同じホームでの接続にはならない。 新快速は、敦賀駅 - 播州赤穂駅・上郡駅間で、北陸本線・琵琶湖線経由または湖西線経由で運転されている。新快速は、2000年3月11日から最高速度が130km/h化されている。快速も2003年12月1日と2004年10月16日に朝ラッシュ時に限り130km/hに引き上げられた。電化当初に投入された42系と「流電」で知られる52系の両形式とも、戦前の省線電車を代表する高速性能に優れた中長距離向け車両であり、戦後も80系・113系と、その当時を代表する国電の中長距離向け電車が登場初期に急電・快速に投入された。新快速は当初113系で運転を開始したが、並行私鉄との競争から、約1年半で急行用の153系に置き換えられた。しかし、その153系も陳腐化したことから、国電としては極めて異例な地域特定車両として、117系が登場した。国鉄分割民営化後に登場した221系で、再び新快速・快速用の車両が共通化された。221系は現在新快速運用から退いているが、快速限定の223系6000番台を除き、後継の223系1000番台・ 2000番台・225系0番台・ 100番台は、新快速・快速共通で運用されている。快速・新快速ともに網干総合車両所所属の225系0番台・ 100番台、223系1000番台・ 2000番台が、快速はさらに221系および223系6000番台電車も使用されており、6・8・10・12両編成で運転されている(10両・12両編成は米原駅 - 網干駅間のみ)。朝ラッシュ時は223系・225系で統一されており、130km/h運転を行っている。京阪神地区の電化に際し、既存の並行私鉄との熾烈な競争が展開されることが予想されたことから、当初に投入された42系は、急行・緩行の双方の運用に対応できる20m2扉のクロスシート車で、高速性能に優れていた。電化後、予想通り並行私鉄との競争が激化したことから、当時としては画期的な流線型の52系を投入、翌1937年に投入された2編成は省線電車初の広窓を採用し、同年10月の京都駅までの電化区間延伸に際して増備された半流モハ43型の2編成とともに戦前の関西急電の主力となった。戦後1949年に復活した急電は、当初は42・52系を使用していたが、1950年8月に運用を開始した80系に置き換えられ、同年10月には横須賀・阪和の各線に転出した。80系はその後も増発や電化区間の拡大に際して増備を重ね、1950年代から1960年代前半にかけて急電・快速の主力として運用された。しかし、2扉デッキ付の80系では激化するラッシュ時の輸送には不向きになってきたことと、登場以来15年近く経過して陳腐化してきたことから、1964年から113系への置き換えを開始し、1968年9月に快速用80系の置き換えを完了したが、1972年3月まで、長距離客車普通列車を電車化した、岡山・広島方面から大阪駅まで乗り入れる80系の運用が残存していた。113系は1981年まで増備され、1992年に転入してきた115系とともに2004年まで、40年の長きにわたって快速運用に充当された。153系は、東海道本線東京・名古屋地区の同形式がそうであったように、1972年3月までは急行・準急の間合い運用で快速運用に充当された。京阪神快速では、急行「はりま」と、「鷲羽」・「とも」の間合い運用で朝夕ラッシュ時の快速を中心に運用された。この運用は、宮原電車区所属の153系が充当されたが、「はりま」の運用によっては、田町電車区の153系が充当されることもあった。1972年3月以降は大阪・新大阪・京都各駅発着の山陽本線の昼行電車急行が激減したことから、153系の快速運用は新快速の間合い運用に変更となり、後継の117系にも継承された。なお、変わった例として、1964年〜1965年に大垣電車区所属の準急「東海」用の12両編成が京都駅までの普通運用に充当されて、京阪神快速の運転区間に乗り入れていたことがある。国鉄時代末期の京阪間では、117系の登場と前後して、阪急・京阪ともに特急車の置き換えが行われており、また京阪本線の出町柳駅への延長(鴨東線開業)を機会に新型車を登場させ、のちにダブルデッカーを組み込むに至っている。2008年に京阪中之島線が開業した時にも同線直通(快速急行)用の車両としてグレードの高い京阪3000系を導入している。また、阪神電気鉄道(阪神)や山陽電気鉄道(山陽)も転換クロスシート車両を登場させ、1998年2月より阪神梅田駅 - 山陽姫路駅間の直通特急「姫路ライナー」・「大阪ライナー」を運転するなどの対抗策を打ち出した。また2009年3月20日には阪神なんば線が開通したことで 神戸方面から大阪南部(ミナミ)・奈良・和歌山方面への利便性が格段に向上したことを積極的にPRしている。それでも線形の良さと複々線の容量を存分に生かして成長するJRの新快速に対し、速度・所要時間では対抗できず、苦戦を強いられている。新快速の高槻停車直前に阪急が特急の高槻市駅停車を始めたものの、JRから利用客を取り戻す材料にはならなかった。さらにはJRが複々線を生かした緩急接続を徹底させたことで普通しか停車しない小駅に対しても時間短縮の効果を上げ、私鉄との所要時間差は決定的なものになった。そのため、各私鉄は京阪間・阪神間の直通輸送を重視する施策から、最速達列車を中間の拠点駅(中核駅)に停車させ、中間各駅からターミナル駅への利便性向上を重視する施策へと次々と転換していった。一方の新快速は利用客を確実に伸ばしていった反面、混雑が激しい列車が多くなっている。大阪駅基準で、現行の昼間のダイヤでは下り三ノ宮・姫路方面は明石駅以西で、上り京都・米原方面では京都駅以東の最先着列車となる。土・休日ダイヤでの12両編成列車の増発や、救済となる臨時列車を運転するなどの対策を行っているが、平日ダイヤの夕方ラッシュ時に8両編成で運転される列車も残るなど、充分に対応しきれていない状況も見られた。2011年3月12日のダイヤ改正から、土・休日ダイヤのすべての新快速は、近江今津駅・米原駅 - 姫路駅間において12両編成で運転され、また平日もラッシュ時を中心に12両で運転される列車が大幅に増えた。京阪神地区は、JRと複数の私鉄が並行していることから、歴史的に激しいサービス競争が繰り広げられている。関西地方で最初に開業した鉄道は旧・日本国有鉄道(国鉄・官営鉄道)の路線で、1874年に大阪駅 - 神戸駅間、1877年に京都駅 - 大阪駅間の路線をそれぞれ開業させた。当時、輸送の多くは国有鉄道の独占であった。1905年4月に阪神が大阪出入橋駅 - 神戸三宮駅間(現在の阪神本線)、1910年4月に京阪が京都五条 - 大阪天満橋間の路線(現在の京阪本線)を開業させて以来、大阪 - 神戸間の阪急神戸線(梅田駅 - 三宮駅)、京都 - 大阪間で新京阪鉄道 - 京阪新京阪線 - 阪急京都線(西院駅 - 天神橋駅)、兵庫駅 - 姫路駅間においては山陽電鉄本線(兵庫駅 - 山陽姫路駅)と、競合する並行私鉄が複数誕生し、市街地への近さ、短い駅間隔、短編成ながら頻繁な運転を売り物とし、国有鉄道から客の多くを奪うことに成功する。私鉄に対抗すべく国有鉄道は、1930年に阪神間・京阪間などで蒸気機関車牽引の快速列車を設定した。1934年7月20日には吹田駅 - 須磨駅で電気運転が開始され、普通電車のほかに、大阪駅 - 神戸駅間に三ノ宮駅のみ停車で28分運転(普通は38分)を行う「急行電車」(いわゆる関西急電と呼ばれる、料金不要の優等列車)を設定した。車両は普通電車とともに42系を新製して投入した。編成は4両、(大阪側)モハ43/42-クハ58-サロハ46-モハ43/42(神戸側)が所定であり、30分間隔で29往復が設定され、2編成が2分折り返しで交互に走った。なおこの時点では阪神間の旅客線は尼崎駅 - 東灘駅間が複々線となって外側2線が貨物や普通電車が走行する緩行線となっていたので普通電車の追い越しは、上下とも西ノ宮駅 - 芦屋駅間で、外側線を走っている普通を内側線の急行が追い抜いていた。1936年3月18日に阪神が元町駅へと延長したことにより、4月1日から急行が元町駅にも停車することとなった。1936年5月13日には、急行用の車両として当時としては斬新な流線型の車体デザインを採用した52系(流電)1編成4両を登場させた。その後1937年10月10日に京都駅までの電気運転が開始されると運転区間を京都駅 - 神戸駅間に拡大した。当時の急行の京都駅 - 神戸駅間の中間停車駅は、大阪・三ノ宮・元町の3駅だけであり、京都駅 - 大阪駅間を34分、大阪駅 - 三ノ宮駅間を25分で結び同区間は当時超特急とも呼ばれた特急列車燕より所定時間が7~9分も速く設定されていた。京都駅までの延長に伴い、52系の2編成8両を増備(第二次流電)したが、流線型は利用客からは好評だったものの、乗務員扉の省略や車体裾のスカートなどが運用・整備上不便だったため、先頭車のみ通常の貫通型に変更してさらに2編成8両が増備され(第三次流電)、合計5編成となった。またこれにより42系は急行の予備と普通として使用されるようになった。戦後の急行電車に用いられた80系や、後に新快速用車両として登場した117系で採用された茶色とクリーム色の塗装、221系の帯色、223系1000・2000番台や225系0・100番台の側面窓周辺の茶色は、急行時代の52系の塗装を意識したものであり、大阪鉄道管理局やJR西日本が関西急電を新快速の偉大な前身と位置付け、関西急電と新快速の歴史の連続性を明示する役割も果たしている。この事からJR西日本では52系保存車は社宝同然の扱いを受け、一般公開の機会も他の保存車より少なめになっている。その後、1942年11月13日限りで、太平洋戦争による戦時体制強化に伴い急行の運転がいったん廃止された。52系は各駅停車に転用され、1944年には3扉化が計画されながらも2扉で残った。戦後になって、1949年4月10日に京都駅 - 大阪駅間で急行が運転再開され、6月1日に京都駅 - 神戸駅間に延長、このとき52系による急行が復活した。1950年8月には、急行の置き換え用に80系がクハ・モハ各14両(2M2Tで7編成)投入された。塗色は上記の通り茶色とクリーム色である。52系の戦後の関西急電での活躍は短く、阪和線特急電車に転用された。80系は1952年8月からは付随車を増結して2M3Tの5両編成で運転された。1956年11月に米原駅 - 京都駅間が電化され、東海道本線の全線電化が完成した。これに伴い、草津・米原方面からの電車が京都駅以西の従来の急行電車の延長の形で走ることとなり、現在に至る京阪神の速達列車と中距離電車の一体化がこのときに始まった。ただし客車普通列車が大阪駅・三ノ宮駅・神戸駅と停車するのに対し、急行電車は従前のとおり元町駅にも停車した。1957年9月25日に茨木駅 - 大阪駅間の旅客用複々線が完成した。10月1日から80系電車による準急列車が名古屋駅 - 大阪駅間に設定されることになったが、これにより料金が必要な準急と無料の急行電車が混在するのはおかしいという理由から、9月25日に「急行電車」を「快速電車」に名称を変更した。また同時に快速が高槻駅の構内改良(高槻電車区開設)に伴い同駅にも停車するようになるとともに、阪神間では内側線を走る一般の快速は芦屋駅、外側線を走る一部の快速は西ノ宮駅(現在の西宮駅)に停車させることとなった。また80系が東海道線を通して走るようになったことにより、塗色統一の話が持ち上がり、湘南色に統一することとなって、9月11日に最初の塗色変更車が出場した。なお、1957年 - 1958年に準急新設と姫路駅までの電化に伴って登場した80系電車(300番台車)は、最初から湘南色の塗装で新製されている。その後、1958年に姫路駅までの電化が完成したことによって、一部の快速が神戸駅以西に進出して姫路駅まで乗り入れ、兵庫駅・須磨駅・明石駅 - 姫路駅間の各駅の順に停車するようになって、西側でも中距離電車との一体化が始まった。1961年には、一等車(のちのグリーン車)を連結するようになった。1964年には、宮原区に113系が51両新製配置され、9月から7両編成(TcMM'T'cMM'T'c)で一部の80系を置き換えて快速として運転が開始された。10月1日には新幹線開業に伴い、新設の新大阪駅が停車駅に追加された。1966年10月にはサロ110配置により二等車連結列車を113系に置き換え、サロ連結の基本編成を高槻電車区・宮原電車区は8両編成とし、サロ不連結の明石電車区車は基本7両編成となった。各電車区とも4両の付属編成をもち、7両 - 12両で運転されていた。1968年10月ダイヤ改正(よんさんとう)で快速の運転間隔を20分から15分に変更し、神戸駅発着系統は廃止され、西側は姫路方面と西明石駅発着の交互で運転されるようになった。なお、高槻電車区所属の80系は同ダイヤ改正を機に運用を離脱して全車転出したが、岡山・広島方面から乗り入れる80系がダイヤ改正後も快速として、1972年3月ダイヤ改正(よんななさん)まで残存していた。1970年3月には日本万国博覧会(大阪万博)開催に伴い、横須賀線から横須賀色(スカ色)113系が転入して輸送に用いられ、開催期間中は茨木駅に臨時停車していたが、停車継続運動が起こり、開催終了後も常時停車となった。1970年10月の大阪万博終了直後、「快速」の更なる速達化として、「新快速」が初めて設定された。当初の運転区間は京都駅 - 西明石駅間で、新幹線停車駅である新大阪駅を通過し、途中停車駅は大阪駅・三ノ宮駅・明石駅のみとした。所要時間は京都駅 - 大阪駅間が最速32分、京都駅 - 西明石駅が最速1時間19分、運転本数は日中の毎時1本の6往復のみであった。これは東京の中央線の特別快速が京王線の特急に対抗するために設定されたものをモデルに、京阪神間で競合する私鉄対策として設定されたものである。この新快速については、当初の毎時1本の体制から、車両、ダイヤともに大きな発展を遂げることになる(従来の快速の動きについては後述する)。1971年4月26日に運転区間を草津駅へと延長した。京都駅 - 草津駅間の途中停車駅は、大津駅と石山駅であった。この当時は横須賀色の113系を使用していた。これは上述の万博輸送のために横須賀線から転入した車両で、関西では見慣れない色だったため識別には都合が良かったが、のちに湘南色に変更された車が多く、113系末期は混色での運転が多かった。1972年3月15日には山陽新幹線の岡山駅までの延伸開業により余剰となった急行形電車の153系(いわゆる「東海形」)を投入し、日中京都駅 - 大阪駅 - 明石駅間で1時間あたり4本に増発した。この時新快速に転用された153系は「新快速色」と呼ばれる白地に青帯の塗装に変更し、「ブルーライナー」の車両愛称を付与した。新快速の運行時間外などは快速としても運用され、稀に湘南色との混色編成などもあった。新快速は15分間隔のパターンダイヤで設定され、急行形車両の使用により最高速度を110km/hに引き上げたことで大阪駅 - 京都駅間を3分短縮し29分運転とした。両駅で1分停車するため、大阪駅と京都駅の出発時刻が揃えられており、宣伝では、時刻表不要の高頻度と時刻のわかりやすさが強調された。京都駅および大阪駅の駅舎壁面上部に時計を形どり「29分間」を強調した広告がこの頃存在した。ただし、当時の幹線では保守間合いと呼ばれる列車の運転休止時間帯があり、日によっては運転間隔は一定でなかった。当時は草津駅 - 西明石駅間および京都駅 - 姫路駅間の2系統とその区間運転の列車があり、姫路駅発着の列車は西明石駅を通過していた。当時の特急「雷鳥」は、大阪駅を毎時0分に新快速と同時発車していた。しかし「雷鳥」は新快速よりも大阪駅 - 京都駅間の余裕時分を多く取っていた。そのため、ともに新大阪駅を通過した後に新快速が「雷鳥」を抜き去って行く光景が、北陸方面に向かう「雷鳥」が走る度に繰り広げられた。「雷鳥」が走る列車線・外側線のダイヤを作成・管理していた国鉄本社は、これではあまりにみっともないということで、新快速のダイヤを管理する大阪鉄道管理局に、新快速のダイヤをずらすように指示したものの、大阪管理局はパターンダイヤを変更することは利用者にとって不便になるという理由を付けて拒否した。本音は、(東京)本社への対抗心だったことは容易に推察され、当時の国鉄OBもそれを認める発言をしている。やむを得ず本社側が折れ、「雷鳥」の新大阪駅停車開始に合わせてダイヤを5分ずらすことにした。また市販の時刻表では、。1973年10月1日の改正で姫路駅発着列車が1時間あたり2本に増発され、1974年7月には湖西線が開業し、1本が堅田駅(観光シーズンは近江今津駅)まで乗り入れるようになった。1978年10月2日のダイヤ改正では神戸駅が停車駅に追加された。1980年1月22日には117系が営業運転を開始した。この当時は国鉄の度重なる運賃の値上げで、私鉄との並行が数多くある京都駅 - 三ノ宮駅間は利用客の激減が進み、「冬の時代」になっていた(いわゆる「国鉄離れ」)。153系の新快速はボックス型の固定シートであったのに対し、京阪間で並行する阪急は6300系、京阪は3000系という転換クロスシートを持った特急専用車を運転していた。これらに対抗するため、料金不要車両ながら転換クロスシートを持ち、シートに枕カバーが付き、蛍光灯にもカバーが付く、極端なまでの「標準化」を推進する当時の国鉄としては破格の車両が誕生した。これが117系であり、導入にあたって「シティライナー」の車両愛称を付与され、ヘッドマークの公募も行われた。この117系は戦前の関西急電の生まれ変わりとも言えるクリーム色と茶色をまとって登場し、この茶色はのちの新快速車両にも受け継がれることになる。当時の新快速は私鉄に比べてまだ劣勢ではあったが、117系の評判は良く、153系からの置き換えが急ピッチで行われ、同年7月の時点で6両編成21本が出揃い、7月9日からすべてが117系となった。この時期、国鉄の普通列車において表定速度が70km/h以上の列車は44本あり、その全てが新快速であった。その中で、京都発大阪行きの新快速「3681M」は京都駅→大阪駅間を30分で走行し、ほかの新快速が29分で走っていたことを考えればやや遅い列車であったものの、表定速度は1980年当時の普通列車の中では最速となる85.6km/hであった。これは、当時の国鉄在来線の全列車の中でも2番目に速いもので、当時最も速い特急であった「加越」5号(表定速度86.1km/h)以外のすべての特急よりも速かった。1985年3月14日から、朝夕に各駅停車ながら彦根駅発着列車の運行を開始し、日中の草津駅発着列車が1時間あたり2本に増発された。同時に新大阪駅が停車駅に追加された。高槻駅 - 大阪駅間の最高速度が100km/hから110km/hに引き上げられた効果で、新大阪駅に追加停車しても、京都駅 - 大阪駅間を29分で運転できるようになった。これまで新幹線が停車する新大阪駅の通過は、新幹線利用の遠方客を中心に誤乗を招いていたが、パターンダイヤを維持するための新大阪駅通過が解消されることとなった。またそれまで普通・快速と同じ内側線を走っていた新快速のうち、朝夕1往復ずつが外側線を走るようになった。1986年11月1日の国鉄最後のダイヤ改正からは山科駅に新たに停車し、西明石駅にも全列車が停車するようになり、西側は全列車が姫路駅発着となり、東側も彦根駅と近江舞子駅(湖西線内は各駅停車に変更)まで1時間に1本ずつ延長されるとともに、草津駅 - 彦根駅間で各駅停車であった新快速の停車駅が削減され、現在の停車パターンによる速達運転が開始された。また国鉄分割民営化を控えて、従来国鉄本社直轄だった外側線と列車線が大阪鉄道管理局に開放され、草津駅 - 西明石駅間の複々線区間で新快速はそれまでの内側線・電車線から外側線・列車線走行に変更となり、大阪駅 - 京都駅間と大阪駅 - 神戸駅間でそれぞれ3 - 5分程の時間短縮が図られた。のちに大阪駅 - 新大阪駅間と京都駅 - 草津駅間は平日朝ラッシュ時以外内側線を走行するようになった。またそれまで大阪駅で快速が新快速を待避していたが、これにあわせて快速・新快速と普通の緩急接続に変更された。側窓を下降式としたマイナーチェンジ版の117系100番台が6両×3編成増備される。この時点においても朝夕ラッシュ時には新快速の設定はなく(姫路駅発着は少ないながらも設定されていた)、外側線を走行する快速がラッシュ時の最速列車であった。また国鉄の鉄道管理局の境界が彦根駅 - 米原駅間であり、新快速の東端は彦根駅発着であった。1970年10月1日に新快速が設定されて以後、快速に関しては17年後の民営化に至るまで基本的に大きな変更なく113系が使用され続けた。この時点の京都駅 - 西明石駅間での停車駅は原則として、高槻駅・茨木駅・新大阪駅・大阪駅・芦屋駅・三ノ宮駅・元町駅・神戸駅・兵庫駅・須磨駅・明石駅であった。外側線を走る一部の快速は上述の通り西ノ宮駅に停車し須磨駅・西明石駅を通過した。また、通勤時間帯には新快速は運行されていなかったため、速達列車の主流は113系を用いた快速であり、夕方ラッシュ時では内側線と外側線を利用した大阪駅同時刻発車の下り快速の設定もあった。その1本は宮原電車区所属の大阪始発下り最長走破となっていた12両編成グリーン車付岡山駅行き快速で、途中駅での編成開放もされず全区間12両で運用されており、これは宇野線への新幹線接続用快速のグリーン車連結のために関西から113系を送り込むため運転されていた。1972年3月15日の改正では、東側で草津駅まで1時間あたり4本に増発された。同時に垂水駅にも電車線の快速が停車するようになり、列車線の快速停車駅に西明石駅が追加された。同年4月20日には六甲道駅に内側線を運転する快速が停車するようになった。1974年7月20日には湖西線が開業し、一部列車が湖西線に直通するようになった。1980年10月1日の改正でグリーン車の連結が中止されたが、それに先立って8月末から時刻表からグリーン車のマークが消え、連結されていた車両は普通車として開放され、編成から抜かれたグリーン車は首都圏へ転出した。末期までサロには二等車を示す薄緑の帯が示されており、この時代を持って実質的に関西地区での普通列車へのグリーン車付属がなくなる事になった。日中の利用状況は閑散としていたが、区間別にグリーン割引回数券なども発行されており、朝夕の通勤時間帯ではそれなりの固定客の利用もあった。また、同年に117系が新快速用としてデビューしたことも関西エリアでの普通グリーン車を淘汰させた理由にもなっている。なお、編成から外されるまでのわずかな期間、開放されたグリーン車は無料と知った乗客で満員であった。これにより基本編成が7両に統一され最大編成でも11両となったが、1981年10月には高槻電車区の編成にサハ111が連結され基本編成が再び8両に戻された。1985年3月14日の改正で日中の快速は高槻駅 - 京都駅間で各駅に停車するようになり、この時間帯における普通(各駅停車)の同区間の運転はなくなった(1997年9月1日に復活)。1987年(昭和62年)4月1日、国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)が発足した。発足時は国鉄最後のダイヤ改正(1986年11月1日)時のダイヤをそのまま継承した。JR発足後は朝ラッシュ時にも新快速が運転されるようになった。1989年には221系が登場し、120km運転も開始されるなど通勤利用が便利になったことや、その大きな窓と明るい車内が新生JRの格好のPR材料となった。また、それまで繰り返されていた運賃値上げがJR発足後は消費税分の上乗せの2回のみであったのに対し、並行の私鉄各社がその間に運賃の値上げを何度か実施し、大きかった運賃の差が縮まったことや「昼間特割きっぷ」の周知なども相まって、徐々に私鉄からの乗客の転移が見られるようになった。特に前記の221系のデビューは画期的であり、JR他社が特急車両の新規製造で旅客乗客獲得を図ったのに対し、JR西日本では関西の私鉄競合の激しさ故、特急車両はリニューアルなどの更新に留め通勤車両にコストをかけて製造した結果であり、今日のアーバンネットワークの基礎をこのころから築きあげてきた。さらに大きな転機となったのが、1995年1月17日の阪神・淡路大震災である。この震災で各鉄道が大きな被害を受け、長期運休を余儀なくされた。その中から、阪神間でもっとも早く開通したのがJRであった。貨物輸送も担う幹線であり、復旧が急がれ、またJR各社の応援を得られたことも大きかった。復旧後のJR神戸線は、複々線の大きな線路容量を生かして、不通区間のあった他私鉄からの転移客も吸収した。特に混雑の激しい新快速は予備車を使ったり、先代の117系も使用して増発し、その後223系1000番台を急遽追加投入して輸送力確保に努めた。その結果、高速運転や頻発運転、さらには通勤定期代の安さなども認知され、他私鉄が開通後もそのままJRを利用する転移客が目立った。また被害の激しかった阪神間や神戸市内での沿線人口が減り、明石市・加古川市・姫路市方面への転居者が多かったこともJRに有利に働いた。また、京阪間においても最速27分という高速運転や、奈良線・嵯峨野線の増発による京都経由の新たなルートの確立(京阪宇治線・近鉄京都線 - 京阪本線と京福電気鉄道 - 阪急京都線の流動がそれぞれJR側に動いた)、さらには京都駅ビル自身の集客力強化などといった施策が功を奏し、並行私鉄から乗客を集めることに成功した。また、京都を越えて直通運転する琵琶湖線沿線、特に草津市・守山市を中心とする(大都市へ直接アクセスする)並行私鉄のない地域では、新快速による時間短縮効果が大阪・京都への通勤客を中心とする人口増を呼ぶとともに、京都市内からの大学の新キャンパス設置や滋賀県内への企業誘致など、新たな需要の拡大を生んでいる。JR化後の各種施策の成果により、他社からの利用者流入など新快速の乗客が徐々に増え、221系投入後は2扉の117系が客扱いで遅延を起こすようになり、早々に撤退を余儀なくされ、また221系の新快速ものちに8両編成主体に変わっていき、更に最長の12両増結列車も徐々に増加していった。ちなみに221系の初回投入時は新快速用が6両、快速用は4両同士連結の8両の編成であった。阪神大震災後に乗客が急増したJR神戸線の増発用として急遽製作された223系1000番台は、扉間の座席を1列減らしてドア周囲を広く取ると同時に、その空間を利用した補助席を新たに設け、ラッシュ時の混雑緩和と日中時間帯の着席サービスの確保を図った。朝夕時間帯の新快速の増発は、さらに利用客の新快速への集中を招くことになったため、223系の増備が進むにつれて、朝ラッシュ時の快速も223系使用で揃えられ、新快速への集中を抑えるため、神戸駅 → 大阪駅間で快速が先着になるなど、ダイヤにも手が加えられている。また130km/h運転に対応する223系の大量増備で各列車の足並みが揃えられ、所要時間の短縮に大きく貢献している。JR西日本の独り勝ち状態と言われた矢先の2005年4月25日にJR福知山線脱線事故が発生、私鉄との競争を意識しすぎた余裕のないダイヤが一因であるとの批判を浴びた。そのため翌2006年3月18日のダイヤ改正では余裕時間の見直しが行われ、主要駅での停車時間の延長、余裕を持った折り返し運用などが実施され、京都駅 - 大阪駅間が27分10秒から28分20秒に、大阪駅 - 三ノ宮駅間では19分50秒から20分50秒にと、それぞれ改正前より約1分の所要時間増となった。福知山線事故、そしてこの所要時間増と逆風のもとで、JRを利用していた客の私鉄への再転移も報じられたが、結果的にはJR京都・JR神戸両線への大きな影響はなかった。また、主要駅に設置されていた新快速の宣伝看板も、事故を機に撤去されるようになった。但し、一部の快速と新快速の130km/h運転は継続しており、各種の安全対策を講じた223系の後継225系が2010年12月から運用が開始されている。

出典:wikipedia

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