福山町(ふくやまちょう Fukuyama-Chō)は、鹿児島県鹿児島市の町名。旧日置郡伊集院郷福山村、日置郡上伊集院村大字福山、日置郡松元町福山。郵便番号は899-2702。人口は749人、世帯数は312世帯(2009年9月末現在)。鹿児島市の西部に所在しており、福山川上流域から中流域に位置している。南方には石谷町及び日置市伊集院町土橋、南方には上谷口町、西部に日置市伊集院町下谷口、伊集院町清藤、東部に松陽台町がそれぞれ接している。町域の中央には南九州西回り自動車道の鹿児島道路が通っており、南端には鹿児島本線が通っている。東端には鹿児島県立松陽高等学校が所在する。町域内の自治公民館は福山川に沿って、福山上、福山中、福山下の3つの自治公民館で構成される。福山という地名は鎌倉期より見え、薩摩国伊集院のうちであった。正中2年の山田道慶譲状には「田地分 壱町 大道田・柳田・山下田・こは田同院福山村内」とありこのころより見える。文永6年の所領譲状案などに見えるように紀氏がその後開発を進め、鎌倉中期には島津氏がこれに参画したとされており、その結果石谷村(現在の石谷町)と福山村が形成された。福山は石谷と共に南北朝期には伊集院氏の支配下にあったとされている。その後宝徳2年に伊集院氏は没落し島津氏の直轄領となった。江戸期には薩摩国日置郡伊集院郷(外城)のうちであり、村高は「郡村高辻帳」及び「天保郷帳」では939石余、「旧高旧領」では538石余であった。村内には福山上、福山中、福山下の3つの字に分かれており、現在でも自治公民館に踏襲されている。1889年(明治22年)に町村制が施行されたのに伴い、江戸時代の外城制における伊集院郷のうち南部の6村の区域より上伊集院村が成立し、それまでの福山村は上伊集院村の大字「福山」となった。1960年(昭和35年)には上伊集院村が町制施行及び即日改称し松元町となり、松元町の大字となった。2003年(平成15年)には福山、石谷、上谷口の各一部が分割され松陽台が設置された、翌年の2004年(平成16年)に松元町が鹿児島市に編入され、鹿児島市の町名「福山町」となった。市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる。国道や県道は通らないが、南九州西回り自動車道が通過する。
出典:wikipedia
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