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松本匡史

松本 匡史(まつもと ただし、本名:松本 哲(さとし)、1954年8月8日 - )は、兵庫県尼崎市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者として活動している。業務提携先はTCP-Artist。現役時代は青い手袋と銀縁の眼鏡がトレードマークで、年間盗塁数のセ・リーグ記録保持者。報徳学園高校では2年生の時に、左翼手、四番打者として1971年の春夏の甲子園に連続出場。春の選抜では、2回戦(初戦)で東邦と対戦する。後に青学大のエースとなる金沢真哉投手が、1回裏、打者13人に対し11四死球という乱調、リリーフの金城成男投手も3四球を続け無安打で11失点。その後は立ち直るが、東邦の水谷啓昭投手に抑えられ4-12で大敗した。夏の選手権は金沢が秋田市立高を完封、2回戦に進出するが、岡義朗遊撃手のいた岡山東商に3-5で敗退。翌年夏は県予選準決勝で山川猛捕手のいた東洋大姫路に敗れた。高校同期に青山忠司(南海)がいる。卒業後は早稲田大学に進学、内野手に転向する。東京六大学リーグでは1973年春季、1974年春季リーグの2回優勝。1974年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で駒大を降し優勝している。リーグ盗塁記録を塗り替え、リードオフマンとして活躍。1975年には第11回アジア野球選手権大会日本代表に選出された。しかし1976年には肩を脱臼し、長期欠場を余儀なくされる。リーグ通算67試合出場、260打数61安打、3本塁打、35打点、57盗塁、打率.235。大学同期に八木茂、吉沢俊幸がいる。卒業後は社会人野球の日本生命に進む予定だったが、1976年のドラフト会議で読売ジャイアンツ(以下、巨人)から5位で指名され入団する。入団1年目の1977年6月13日の対大洋戦の9回表に代走で出場してタイムリーヒットでホームインし、味方の打者一巡の猛攻の後に回ってきた打席で、満塁本塁打を打つという珍しい記録を作った。その後は肩の脱臼がクセになっていたこともあって伸び悩んでいたが、1979年に肩を手術するとともに外野手にコンバートされる。同年秋に長嶋茂雄監督が静岡県の伊東スタジアムで行った「地獄の伊東キャンプ」で、俊足を生かす為に右打ちからスイッチヒッターに転向する。当初は全くボールが飛ばなかったが、練習を続けた結果、素質が開花する。翌1980年は9月から中堅手、一番打者に抜擢され、柴田勲の後継と目される。1981年にはロイ・ホワイトが中堅手に入ったため左翼手に回り、シーズン中盤からは一番打者として河埜和正と併用される。同年は規定打席未満ではあるが打率.303をマーク、リーグ優勝に貢献した。8月15日に神宮球場で行なわれた対ヤクルト戦では、振り逃げを取り消された直後に本塁打を打っている。日本ハムファイターズとの日本シリーズでは第4戦まで一番打者として先発したが、14打数2安打2打点と不調に終わった。1982年には開幕から中堅手、一番打者に定着。同年は初めて規定打席(14位、打率.282)に達し盗塁王も獲得。翌1983年に記録した年間76盗塁はセ・リーグ記録。走塁の為に特注のワンピースユニフォーム(ヘッドスライディング時に砂が入るのを防ぐ為)、また青色の手袋を着用し当時の巨人のビジターユニフォームが水色であった事とも併せて「青い稲妻」のニックネームを付けられる。これは赤い手袋を着用した「赤い手袋・柴田勲」にあやかったものである。同年の西武ライオンズとの日本シリーズでは全7戦に一番打者として先発、敗れはしたが30打数8安打1打点を記録した。脱臼が原因で弱肩ではあったが、守備範囲の広い中堅手として守備の要としても活躍。1981年から3年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。1982年9月、広島戦で頭部に死球を受け退場、戦線を離脱。切り込み隊長であった松本の離脱が中日の逆転優勝の一因になったとも言われている。ウォーレン・クロマティ加入後の1985年からレフトを守ることが多くなる。1987年、開幕から打撃好調で前半戦一時は首位打者を独走したものの、6月下旬くらいから突然スランプ気味になり、後半戦、台頭してきた駒田徳広が1番レフトでスタメン出場する機会が増えていく。そんな中、久しぶりにスタメンに起用された試合でイージーフライを落球すると、王監督がこれに激怒。このミスが致命的となり以後さらにベンチを温める日が続くようになる。新本拠地東京ドーム完成に伴う外野守備陣の強化と簑田浩二(阪急)の交換要員(結果的に簑田は金銭トレードで獲得することになる)として名前が挙がったことで事実上の戦力外となるが、この時の年齢は33歳だった。移籍先を探して他球団で現役続行を選ぶ道もあったが、後楽園球場最後の年のリーグ優勝を手土産に、ジャイアンツのユニフォームのまま、引退することを選んだ。引退後は日本テレビ解説者(1988年)を経て、巨人(1989年一軍守備・走塁コーチ, 1990年・2001年一軍外野守備・走塁コーチ, 1992年二軍走塁コーチ, 1993年 - 1994年二軍守備・走塁コーチ, 1995年 - 1997年二軍監督, 2002年 - 2005年スカウト)・楽天(2006年ヘッドコーチ)で監督・コーチ・フロントを就任。野村克也監督は松本を採用した理由について「延々夜中まで野球の話をしても、時計も全く見ず、嫌な顔一つせずに話を聞いてくれるところが気に入った」と石橋貴明に語っている。しかし、ヘッドコーチの職は1年間務めただけで辞任した。この理由について、当時の一軍外野守備・走塁コーチで2007年より松本に代わってヘッドコーチを務めた橋上秀樹は、「(野村)監督の欲しがっている情報に対して、臨機応変に応えることができなかった」と自らの著書の中で語っている。辞任後は再び解説者となり、フジテレビONE『プロ野球ニュース』、東北放送(2008年から)、スカイ・Asports+(2011年まで)、J SPORTS(2012年)、日テレプラス(2013年から)で解説を行っている。2013年、日本女子プロ野球機構のリーグアドバイザーに就任。巨人から指名された当初、入団に前向きではなかった。理由としては早稲田大学時代に肩の脱臼など怪我が多かったこと(そのことから、両親は松本を本名の哲から匡史に改名させた)や社会人野球へ進むことが決まっていたことが挙げられる。しかし、時の監督長嶋茂雄の強い希望、果ては正力亨オーナーが、入社が決まっていた日本生命の野球部首脳陣にまで懇願、入団にこぎつけた。長嶋は「これからは松本のような足のある選手が必要になる」と考えていたらしい。所属事務所TCP-Artist 公式プロフィール

出典:wikipedia

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