大淀(おおよど)は、大阪府大阪市北区の地名。広義には旧大淀区全体を指すこともあるが、本項では北区北西部(旧大淀区西部)の町名・地域名としての大淀について記述する。北区の北西部に位置する。住居表示実施後の現行行政地名は大淀北・大淀中・大淀南に分かれる。梅田の北西約1kmほどの地点に位置する。地域は梅田に連なるオフィス街・商業地と、高層住宅や古くからの住宅が混在する地域となっている。また地域の北西部は、工場や倉庫などが立地する地域となっている。地域の北東は中津(北区)、南側は福島(福島区)、西側は鷺洲(福島区)となる。また淀川を隔てた北側は十三(淀川区)および塚本(淀川区)となる。元は浦江(うらえ)・大仁(だいに)の2つの町だったが、区画整理により統合し、1963年に大淀区大淀町となった。さらに1977年の住居表示実施により、大淀北・大淀中・大淀南となっている。この地は古来、浦江・大仁と呼ばれていた。浦江は古くは大江郷浦江岬と呼ばれていたと伝えられる。1570年の織田信長の三好討伐の際、この地にあった浦江城に入城したとされるが、浦江城跡の位置についてははっきりしない。大仁の地名は王仁に由来すると伝えられる。この地に王仁の墓があると伝えられたことから、王仁が転化して大仁になったという。江戸時代までにこの地には摂津国西成郡浦江村・大仁村の2村が成立した。明治時代の町村制実施により、浦江・大仁・海老江(現在の福島区海老江付近)・塚本(現在の淀川区塚本・西淀川区柏里付近)の4村が1889年に合併し、西成郡鷺洲村が発足した。旧村は鷺洲村の大字となり、鷺洲村大字浦江・鷺洲村大字大仁と称した。地域は明治時代中期まで農村だったが、大阪市に近接している地理条件や、日清戦争を機とした産業発展により工場が地域に進出したことなどから、人口が増加し市街地化していった。大仁新道(のち浄正橋筋、現在のなにわ筋)沿いは商店や飲食店・映画館などが並ぶ繁華街となったと伝えられる。鷺洲村は1911年2月1日に町制を施行し、鷺洲町となった。鷺洲町は1925年の大阪市第二次市域拡張によって大阪市に編入されることになった。鷺洲町などで西淀川区を新設し、地域は西淀川区浦江町および大仁町になった。大阪市は1943年、行政区の分増区・境界整理を全市的に実施した。西淀川区浦江町のうち東海道本線以東、西淀川区大仁町の全域、および当時東淀川区に属していた中津・豊崎をあわせ、大淀区を新設することになった。なお浦江町は東海道本線以西にもまたがっていたが、分区の際に東海道本線以西は福島区となり、福島区側では翌1944年に鷺洲へ町名変更している。1945年6月1日・6月7日の大阪大空襲では、地域に大きな被害を受けている。区画整理に伴って1963年5月31日に浦江・大仁を統合し、大淀町の町名が設定された。浦江・大仁ともに古くからの地名だったことから旧町名を残すべきという要望もあがったが、旧両町の町名を一本化すべきという基本方針から、地域対立を避けるために大淀町の町名が採用された。1977年2月1日の住居表示実施に伴い、従来の大淀町が再編され、大淀区大淀北一丁目~二丁目、大淀中一丁目~五丁目、大淀南一丁目~三丁目の町名が設定された。1989年2月11には大淀区と北区の合併に伴って新たな北区となったが、町名はそのまま北区に引き継がれ、北区大淀北一丁目~二丁目、大淀中一丁目~五丁目、大淀南一丁目~三丁目となっている。西端に東海道本線(JR神戸線)の線路があり福島区との境界(線路敷地は福島区側)となっているが、地域内には鉄道駅はない。また地域の東端を梅田貨物線(線路敷地は北区大深町)が通る。地域からはおおむね、大阪駅・梅田駅、大阪環状線福島駅 、JR東西線新福島駅、阪神福島駅、阪急中津駅あたりが徒歩圏内として利用できる。かつては阪神北大阪線が地域北部を東西に通り、野田阪神・海老江方面と中津・天六方面を結んでいた。地域内には西大淀・大淀・東大淀(1960年代に浦江北五丁目・北浦江・大仁本町から改称)の各電停があった。阪神北大阪線は1975年に廃止された。幹線道路はなにわ筋およびあみだ池筋が南北に通っている。地域北東端(中津との境界付近)に十三バイパスの入り口があり、新十三大橋を経て対岸の十三とを結ぶ。バス路線は大阪市営バスと阪急バス、阪神バスの路線が通る。阪神バスの路線はかつての阪神北大阪線を継承したものであり、旧電停をバス停として継承している。地域内には幼稚園1園(公立1)、小学校1校、中学校2校(公立1・私立1)・高等学校2校(私立2)・専修学校1校(私立1)の教育機関が設置されている。大学・特別支援学校は設置されていない。公立小中学校に通学する場合は、全域が大淀小学校・大淀中学校の校区となる。このほか1963年まで、地域に関西大倉高等学校があった。旧制関西商工学校として1905年に鷺洲町大字大仁(現大淀南2丁目)に校舎を構え、1948年9月には中之島にあった大阪大倉商業学校と合併し新制関西大倉高等学校となった。1963年4月に茨木市へ郊外移転した。跡地は朝日放送として使用された。地域内の施設としては、以下のようなものがある。ただし教育関係・交通関係については、別節で詳述。1966年より朝日放送が大淀に社屋を置き、テレビ・ラジオの放送業務をおこなっていた。しかし2008年に福島区福島一丁目の再開発地区・ほたるまちに移転している。旧社屋および同局関連施設(ABCセンター・大阪タワー・ホテルプラザ)はザ・シンフォニーホールを除いて取り壊され、跡地は商業施設・住宅として再開発される見通しである。
出典:wikipedia
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