下福元町(しもふくもとちょう Shimo Fukumoto-Chō)は、鹿児島県鹿児島市の町名。旧谿山郡谷山郷下福元村、谿山郡谷山村大字下福元、鹿児島郡谷山町大字下福元、谷山市下福元町。郵便番号は891-0144。人口は7,180人、世帯数は3,201世帯(2009年9月末現在)。鹿児島市南部(谷山地区)に位置し、和田川下流域及び万之瀬川の源流域に位置する。町域の北方には鹿児島市中山町、上福元町、南方には鹿児島市平川町、南九州市川辺町清水、東方には鹿児島市谷山中央、西谷山、慈眼寺町、錦江台、坂之上、七ツ島、光山、西方には日置市吹上町与倉、日置市吹上町湯之浦、日置市吹上町和田、南さつま市金峰町大坂がそれぞれ接している。教育施設は町域の西部に鹿児島市唯一の併置型小中学校である鹿児島市立錫山小中学校が位置している。また、錫山小中学校が所在する錫山集落では1655年に錫の鉱床が発見され、以降薩摩の三山と呼ばれた。1701年には島津氏に経営が移り、天保年間には11.53トンの錫が産出されたとされる。また、中央部を南北に指宿スカイライン(鹿児島県道17号指宿鹿児島インター線)が通っており、中央部には錫山インターチェンジが所在している。北部には東西に鹿児島県道20号鹿児島加世田線が通っており、途中で鹿児島県道22号谷山伊作線に分岐し県道20号は進路を南方に変える。南方には国道225号が南北に通っており、影原交差点で西方向に国道226号が分岐している。下福元という地名は江戸期より見え、薩摩国谿山郡谷山郷(外城)のうちであった。上福元村(現在の上福元町など)と共に福本村とも称していた。村高(石高)は「旧高旧領」では3,038石余であったとされ、人口は5,020人、戸数は1,019戸であった。1889年(明治22年)に町村制が施行されたのに伴い、下福元村、上福元村、松崎町、塩屋村、和田村、平川村、中村、山田村、五ケ別府村の区域より谷山村が設置され、それまでの下福元村は谷山村の大字「下福元」(1924年の町制施行の際も同様)となった。1957年(昭和32年)には谷山町が市制施行し、谷山市となったのに伴い、谷山市の町名「下福元町」となった。1967年(昭和42年)に谷山市が鹿児島市と新設合併し、鹿児島市の町名となった。1984年(昭和59年)には町域の一部より錦江台一丁目から錦江台三丁目、1996年(平成8年)には一部より慈眼寺町、谷山中央五丁目から谷山中央七丁目、2008年(平成20年)に一部が坂之上一丁目から坂之上八丁目、光山一丁目及び光山二丁目に各一部が分割された。また、2005年(平成17年)には中央慈眼寺台地区が下福元町から慈眼寺町に分割され、2014年(平成26年)2月17日には谷山第二地区土地区画整理事業の事業区域の一部で谷山第二地区(第一期)として住居表示が実施され、下福元町の一部及び上福元町の一部より西谷山二丁目が設置された。市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる。
出典:wikipedia
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