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永原一照

永原 一照(ながはら かつあき)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。土佐藩家老。滝山一揆を鎮定し善政により土佐山内氏の土佐治政に功績があった。永禄元年(1558年)、尾張国に生まれる。祖先は宇多源氏近江佐々木氏支流である山崎氏支流の永原氏。諱は初め高照を名乗る。始め六角氏に属し、その衰退後織田氏に仕える。天正13年(1585年)、近江国長浜城主となった山内一豊に仕える。その後一豊より「一」の偏諱を賜り諱を一照と改める。通称は刑部大輔。また山内姓を許されてされて山内一照・山内刑部を称した。天正18年(1590年)、一豊の遠江国掛川転封に伴って知行500石を与えられる。慶長6年(1601年)、山内氏の土佐入国に際して積年の功により土佐国長岡郡本山1330石を与えられ本山土居の初代領主として本山領の支配を任される。慶長8年(1603年)、滝山一揆の鎮圧に尽力し知行2500石に加増され代官領1000石も与えられる。その後本山において善政を敷く。慶長29年(1614年)、大坂の陣において高知城留守居役を務め主君からの信頼も厚かった。元和6年(1620年)6月30日死去。享年63歳。本山は、長宗我部氏が「北山500石」と称せらる本山氏ら一領具足の在地支配を認めていた地であったため、長宗我部氏改易後も郷士らは領有を主張して、新領主山内氏に対抗して年貢の納入を拒んでいた。慶長8年(1603年)11月、業を煮やした一照は、北山の土豪・百姓らに「早々に年貢を納めるよう」再三布告をしたが、かつて北山で80石を給せられていた高石左馬助は、「凶作を理由にこれらを拒否するよう」百姓らを扇動したため、激怒した一照は百姓一軒一軒から一人ずつ人質を取って計33名の人質を浦戸に入牢させ、再度「年貢を納めるよう」命じた。しかし、百姓等は左馬助らの威勢に圧されて年貢の上納に応じなかったことから、一照は左馬助を本山土居に呼び出して詰問するも、「豊作凶作は天然自然の次第であって人智の及ぶものにあらず、武力を以て示めされようが、凶作ゆえに上納致したくとも上納すべきものがござらぬ」と言い逃れて立ち去った。左馬助は北山討伐を予期し、その日のうちに弟吉之助や北山の百姓らを呼び寄せて武力決起の準備を進め、「反検地と年貢減免」を掲げて近隣の百姓約100名を集めて北山の滝山に立籠った。翌日、一照は与力井口惣左衛門を左馬助のもとへ派遣したが、惣左衛門は不穏な動きを知って急ぎ帰参し、「百姓らが滝山に防禦陣地を作り、一揆を謀てている」と言上した。驚いた一照は配下10名を従えて滝山に向かったが、百姓らが鉄砲で威嚇して来たため、一旦引き返して、翌日手勢を30名に増やして中島村方面から討伐を開始した。中島・寺家両村の百姓らはすぐに敗走したものの、滝山は峻険にして天然の要衝であり、滝山勢の銃弾が一照の鞍に当たるなど膠着状態となったため、一照らは思案して高知に伝令を差し向けた。この報らせを受けて直ちに評定が開かれ、「近隣豊永郷の郷士豊永五郎衛門を召し出して山道を案内をさせ、野々村因幡と山内掃部を加勢して一揆を鎮圧するよう」藩命が下った。豊永五郎衛門は、当時浪人していた竹崎太郎右衛門、三谷次郎三郎等の長宗我部氏遺臣を呼び寄せて討伐軍に加わることを説き、野々村因幡、山内掃部ら援軍を本山まで先導する事になったが、滝山を攻略する道は一つしかなく一揆勢は鉄砲5艇を備え、また釣り石などを駆使して反撃したため多くの死傷者を出した。そこで一照らは作戦を変更し、針窪山から大筒で敵陣を砲撃する事にしてようやく功を奏し、百姓ら一揆勢は5日後に退散し、左馬助は霧に紛れて土佐国瓜生野に退却し、讃岐国に逃れた。滝山の百姓らはほとんどが一揆に参加していたため、鎮圧後も懲罰を恐れて山に隠れていた。耕地の荒廃を懸念した豊永五郎衛門は、一照に「百姓らの罪を不問に伏す事」や「未進分の年貢も赦免する事」を嘆願した結果、一照は百姓らの帰村を図るためこの意見を容れて、「一揆を扇動した山原左馬丞とその息子二人を首謀者として断罪にする事」と「百姓らの刀を召し上げにする事」を条件に百姓ら全員の罪を免じた。しかし、浦戸に捕らえられていた人質の中に大工の彦右衛門という者がおり、「明日人質全員が処刑される」という風聞を信じ、隠し持っていた小さな爪きりで人質10人と無理心中した。山内氏の土佐治政に対する最後の抵抗であり、これ以降、一領具足は弱体化していった。

出典:wikipedia

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