


大阪事件(おおさかじけん)は、1957年(昭和32年)に起こった公職選挙法違反事件。創価学会陣営が煙草などで有権者を買収したとして起訴された事件。創価学会幹部の池田大作が公職選挙法違反で逮捕されたが、裁判では無罪となった。1957年(昭和32年)4月に参議院大阪地方区の補欠選挙が行われ、創価学会は中尾辰義を立候補させた。中尾は落選したがその選挙期間中に創価学会員が大阪あいりん地区に住む日雇い労働者達に候補者名の氏名の入ったタバコを渡した。タバコ以外にもタバコの中に五百円札が入っていたとも言われている。大阪地検特捜部は当時の学会本部の理事長・小泉隆と学会の渉外部長・池田をはじめ創価学会員ら45人を公職選挙法違反で逮捕した。戸田城聖創価学会会長は、幹部をはじめ創価学会員ら47人が公職選挙法違反で逮捕されたことにすばやく対応した。小泉・池田以外の選挙運動に動員、起訴された創価学会員45名を会長名で即刻除名処分にし、小泉・池田の即時釈放を要求する大会を開催した。公判が始まると小泉はすべてを否定したのに対し池田が勾留段階で検事の調べに対し、自白して署名したことが明らかになった。裁判の中では一転して、池田は嫌疑を否定した。そのため公判の争点は、自白の信用性の有無や、戸別訪問を池田自身が指揮したかにあった。公判中の1960年5月、被告人の池田は突如創価学会の会長に就任する。大阪支部では一部会員や幹部が池田大作に反旗を翻した。池田は自らを批判した会員を除名処分としたが除名処分に不服を抱いた会員が大阪事件は池田が主導して行ったと聞いていると大阪地検に密告、検察側の証人として出廷、池田が事件を主導したと証言した。しかし、弁護側の反対尋問で証人自身が直接話を聞いたわけではなく第三者からの又聞きであったこと、除名処分を受けたことに対し個人的恨みをもっていたことから、証人の発言は証拠採用されなかった。ただしこの証言により審理のやり直しが行われ、一審判決が出るまで5年の歳月がかかるなど裁判長期化の要因となった。昭和37年1月25日大阪地方裁判所判決(田中勇雄裁判長) 池田大作:無罪。小泉隆:無罪。除名された創価学会員:罰金刑20人、公民権停止17人。大阪事件はさまざまな背景が考えられるが、事件のおきた原因はいまだ持って不明とされている。創価学会が提唱。1955年、創価学会は地方政界に初めて進出するが、当時は政党を持たなかった(1962年1月に公明政治連盟発足)。後に立党される公明党は当初「王仏冥合」・「仏法民主主義」を基本理念とすることを謳うなど、宗教的な目的を前面に打ち出していた。。このような創価学会の政界進出の理念について、宗教界のみならず、政官界で疑念が抱かれ、当時の公安調査庁長官が「学会を破防法で取り締まる」と発言した内容が新聞に報じられたこともあった。また当時戸田会長の指揮の下「折伏大行進」が起こり学会の勢力拡大に危機感を覚えた他宗派は香典泥棒などのデマを出し対抗した。そのときに大阪事件という問題がおきる。創価学会を根絶やしにする願ってもない好機と考えた国家(戦前の思想検事派など)はこの事件を好機と捉え、マスコミに大きく報道することで創価学会のイメージダウンを図り創価学会根絶を図ったというもの。創価学会、公明党が大阪事件後の1970年5月、言論出版妨害事件に端を発した世論からの批判を受け日大講堂で池田大作が謝罪「王仏冥合」・「仏法民主主義」の基本理念を破棄することで公明党と創価学会は形式上、政教分離を果たしている。池田大作著『人間革命』より抜粋。実際事件を捜査した大阪地検特捜部の暴走説を主張。大阪地検特捜部は創価学会の幹部を逮捕することで点数稼ぎに走ったというもの。逮捕された学会員の供述から小泉・池田の両名は逮捕され残るは戸田会長の逮捕するための供述を得ることだったが池田が口を割らないため、食事を与えない、手錠をかけたまま取調を行う、また、当時既に体調を害していた戸田会長を逮捕すると恫喝するなどの捜査を行ったという結果池田は供述し調書にサインすることになり戸田会長の逮捕は免れたというもの。これについては、大阪事件の被疑者である池田大作の著書では信用性が乏しい上、池田の供述がなくても検察はいつでも戸田会長の逮捕は可能だったため、著書の内容には疑問が残る。なお、『池田大作の軌跡』第1巻(潮出版社)では、戦前からの思想検事閥の存在が大阪地検特捜部の背後にあるのではないかとの推論を述べている。また、公判で取り調べ時に検察が池田大作に上記行動を行ったとされる供述は無い。池田大作とその部下が創価学会内での地位向上を狙い暴走したという説。検察が大阪事件裁判の冒頭陳述で述べる。大阪事件当時学会内の席次が37位と低かった池田が末端の学会員を使い候補者を当選させることで学会内での地位向上を謀り池田や池田を支える部下たちが勝手に大阪事件を起こしたと大阪地検特捜部が述べたが創価学会はこの説を否定している。しかし、池田大作会長就任直後、大阪支部で一部会員や幹部が反池田を掲げ決起した際に大阪事件は池田大作が主犯となって大阪支部の会員に選挙違反を強要したれっきとした犯罪であり冤罪ではないと主張、検察側の証人として出廷した。ルポライターの竹中労が提唱。戦後夕張炭労と創価学会は選挙協力関係にあった。しかし1956年に行われた第4回参議院選挙でそれまで炭労の候補者に投票していた夕張の創価学会は、夕張炭労の推薦する候補者ではなく初めて独自候補者を立て支援活動に挑んだ。そのため分裂選挙となり夕張炭労の候補者は落選したが創価学会員の3000票ともいわれる組織票を失い面目丸つぶれとなった夕張炭労幹部がその報復で大阪事件を検察にリークしたとするもの。実際選挙前に夕張炭労の幹部が創価学会の婦人たちを呼び出し「学会を辞めなかったら、お宅の旦那はクビだ」などと恫喝したり、選挙後には創価学会系組合員に対して『労働金庫』の貸出し拒否、炭住長屋の補修サボタージュ、(学会をやめなければ)組合を除名(実質解雇)すると恫喝するなど報復が起こった。報復は大人だけではなく子供達までおよび仲間はずれやいじめ、お菓子を貰えないといった差別まで起きた。これら差別を学会内部では学会員が信教の自由を守り抜いた夕張炭労事件として語り継がれている上、大阪事件の発端はあいりん地区の日雇い労働者であることや夕張炭労との対決前に池田が逮捕されたことからも夕張炭労と大阪事件の関連性を疑う声もある。戸田には池田大作、石田次男、小泉隆、龍年光等有力な弟子に恵まれたが、自身の健康問題から後継者選びが急務となり、戸田は当初、石田次男を後継者に考えていたしかし石田は後継者を辞退したため、戸田は池田を後継者として考えるようになったという。戸田は自身や初代会長牧口が治安維持法で逮捕・投獄されても創価学会の信念を捨てなかったことから逮捕投獄されて信念を捨てるようでは創価学会の後継にはふさわしくないと考え、戸田自らが検察に大阪事件をリークし、池田・小泉両名の後継者としての力量を試し、後継者の最終試験を行ったという説。しかし、取り調べ段階における池田の調書や供述を裁判で確認した戸田は1958年3月、広宣流布の一切の後事を青年部全体に託すと表明、具体的な後継者の氏名を出さなかった。翌月、戸田が急死し、実際に検察に事件をリークしたかは不明である。しかし近年、戸田が側近に「できれば、わしが代わって入ってやりたい。あそこは、入った者でないとわからないんだ」語ったとされる手記が機関誌「潮」に掲載された。初代会長・牧口常三郎、第2代会長・戸田がともに戦前、治安維持法違反と神社に対する不敬罪で逮捕、投獄された歴史を持つ創価学会では、大阪事件の無罪判決は大きな意味を持った。ただし、1968年には創価学会員が有権者の投票入場券を盗み有権者本人になりすまして投票を行ったとして14人が逮捕されるなど問題を起こした。また、同時期には創価学会員が藤原弘達の『創価学会を斬る』の出版を創価学会・公明党が妨害したとされ国会・マスメディアから批判を受け社会問題へと発展した。1970年5月3日に池田が言論出版妨害事件を収束させるため、日大講堂で謝罪、創価学会と公明党との政教分離を宣言した。
出典:wikipedia
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