


坂元町(さかもとちよう Sakamoto-Chō)は、鹿児島県鹿児島市の町名。旧鹿児島郡鹿児島近在坂元村、鹿児島郡吉野村大字吉野の一部。坂元町の一部で住居表示を実施している。郵便番号は892-0862。人口は3,887人、世帯数は1,519世帯(2009年9月末現在)。鹿児島市北部、稲荷川中流域に位置している。町域の北方に東坂元、南方に下竜尾町、池之上町、西方に玉里団地、若葉町、東方に東坂元、飛び地との間に下伊敷町が接している。北方と南方の飛び地で形成されている。北方の南部には県警察学校の跡地が所在している。また、町域の中央部を鹿児島県道25号鹿児島蒲生線が南北に通っており、坂元住宅入口交差点で鹿児島県道208号坂元伊敷線が北西方向に分岐している。坂元(坂本)という地名は室町期より見え、薩摩国鹿児島郡のうちであった。寛正6年の「鹿児島諏訪社祭次第」には「三番 丁亥年 坂本 谷山之福本」とあり、坂本という地名はこのころより見える。江戸期には薩摩国鹿児島郡鹿児島近在のうちであり、坂本村とも坂元村とも書かれていた。村高は「天保郷帳」では2,534石余、「旧高旧領」では948石余であった。安永2年に島津重豪が地内に藩校造士館と武芸稽古場を設置した。明治3年に下田村を編入し(その後1881年に再び下田村として分立)、明治初期に一部を稲荷馬場町(現在の稲荷町)、春日小路町(現在の春日町)、清水馬場町(現在の清水町)に分割した。1889年(明治22年)には町村制が施行されたのに伴い、坂元村の区域は吉野村の大字吉野のうちとなった。1920年(大正9年)に吉野村が鹿児島市に編入されたのに伴い、吉野から藩政村の坂元村の区域が分割され鹿児島市の町名「坂元町」として独立した。1978年(昭和53年)に一部が玉里団地一丁目から玉里団地三丁目の一部となり、1983年(昭和58年)に一部が東坂元一丁目、東坂元二丁目及び西坂元町となり、1985年(昭和60年)には坂元町の一部で住居表示が実施された。1992年(平成4年)には一部が東坂元三丁目及び東坂元四丁目となった。市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる。
出典:wikipedia
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