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佐田の海貴士

佐田の海 貴士(さだのうみ たかし、1987年5月11日 - )は、熊本県熊本市(現・熊本市東区)出身で境川部屋所属の現役大相撲力士。本名は松村要(まつむら かなめ)。身長183cm、体重146kg。得意手は右四つ・寄り・上手投げ。最高位は西前頭筆頭(2015年7月場所)。血液型はO型。1980年代に速攻相撲で活躍した出羽海部屋所属の元・小結である佐田の海の長男として生まれる。幼稚園の頃からすでに力士を志していたようであり、授業で「お相撲さんになる」と将来の夢を書いたこともある。父が協会を退職したことをきっかけに小学校6年の1999年12月から中学校2年の2002年1月まで愛知県の犬山市立城東中学校で育つ。父からは「勉強はしなくていいから、何でも好きなことをやれ」と言われ、松村は野球に打ち込んでいたが、その代わり父は経験のない状態で大相撲に進んでもらうにあえて相撲のアマチュア経験は積ませなかった。「勉強はしなくてもいい」と言われたのにもかかわらず、小学3年生か4年生の時にオール5の通知表をもらったことがある。父の現役時代に憧れて中学卒業後の2003年春場所に父の弟弟子である境川親方(元小結・両国)が師匠を務める境川部屋に入門し初土俵を踏む。境川部屋を選んだ理由は、父から「男を磨くならこの部屋だ」と勧められたことであり、本人はてっきり父の所属していた部屋である出羽海部屋に入門するのだと思い込んでいたという。2004年1月場所から父親の現役時代と同じ「佐田の海」の四股名を名乗る。本人はこの四股名を襲名したことについて「入門してみて『佐田の海』を名乗るのは恐れ多いと思いましたが、1年目の九州場所の時に境川から『今場所は勝ち越しても負け越しても来場所から佐田の海で行くぞ、親父さんには俺から言っておくから』と言われ、最初は『顔じゃない』と遠慮したんですが、この世界は師匠の言うことは絶対なんで」と話している。軽量のため苦労したが、2007年11月場所で三段目優勝を果たして頭角を現すと、翌2008年1月場所に幕下に昇進。その後は幕下中位に定着し、2010年1月場所において幕下優勝を飾った。翌3月場所は自己最高位となる西幕下2枚目の地位で3勝4敗と負け越したものの、十両の土俵に上がり同郷の白乃波から勝利を挙げた。続く5月場所では東幕下5枚目の地位で5勝2敗と勝ち越し、場所後の番付編成会議にて同年7月場所における新十両昇進が決定、栃東(元・13代玉ノ井親方)とその次男で1996年5月場所で新十両へ昇進した栃東の例以来14年ぶりとなる史上9組目の親子関取となった。十両昇進後は8場所十両に定着したが、2011年9月場所千秋楽の取組で右足首を脱臼骨折し、手術を受けて翌11月場所を全休して十両から陥落。本人はこのケガについて後に「その年は1回も勝ち越してなく、しかもその場所も7勝7敗だったんで絶対に勝ち越したい気持ちが強かったんですね。寄り倒されたんですけど最後まで諦めたくなくて、無理な体勢で残そうとしてけがをしました」と振り返っている。幕下に下がっても十両復帰目前まで来ては負け越しが続き、2年間も幕下で低迷した。幕下陥落時には豪栄道の付け人やちゃんこ番を務める生活を送り「1年以上も関取だっただけにつらかった」というが、「ちゃんとやっていれば部屋の強い力士に追いつける。心配するな」と父に励まされて再起を図った。中学生のときにビデオで見た父の取り口も思い出しながら「下がりながらの投げ技が足首に負担をかけていた」と分析し、稽古を重ねて出足を重視した相撲を磨き上げていった。2013年3月場所には左目の眼底骨折に見舞われ、医者からも「完璧に治ることはない。もし相撲を続けるなら、二重に見えることが当たり前と思って取るしかない」と言われるほどの重症であったため本人も「これは相撲どころではない」「相撲を辞めて、何の仕事に就こうか」と思ったが、意外にも手術が上手くいったため現役続行を選んだ。境川からも「頑張っていればチャンスは絶対にくる」と激励されたことや、知り合いに再就職の紹介を頼んだ際に「バカヤロー、そんな中途半端な奴に紹介できる仕事なんかないよ」と言われたことも現役続行につながった。同年11月場所で東幕下5枚目の地位で4勝3敗と勝ち越し、通常ならば十両昇進は難しいが阿覧の引退と十両から幕下に降格する力士の数が多かったため、翌2014年1月場所で13場所ぶりに十両に復帰することが決定し、西十両13枚目の地位で土俵に上がることとなった。2014年1月場所は9日目に勝ち越しを決め、2日目から10連勝するなど好調であり、11勝4敗の好成績を挙げた。翌3月場所は自己最高位を西十両4枚目まで更新し、その場所は11日目に勝ち越しを果たすなど好調だったがその後4連敗し、最終的には8勝7敗となった。翌5月場所では初土俵から所要66場所で新入幕を果たし、これにより父と自身が史上8組目の親子幕内となった。幕内昇進会見では「父を超えることが親孝行。どんどん番付を上げる」と意欲を語り、境川は「お父さんから15歳の彼を預かった時から、男の約束だった。けがしても地道に稽古していた。相撲の神様が見ていてくれたんだろう」と感慨深げに話していた。父も「他の新弟子なら一目でものになるか分かるが、自分の息子となると……。だからこそ育ててくれた親方に感謝している」と息子が幕内昇進を掴んだ時期にコメントを残しており、いつも息子が掛けていた電話での助言は「もうしない。それくらい進歩したよ」と話していた。新入幕の5月場所では、10日目に勝ち越しを決めるなど好調で、千秋楽に玉鷲を突き落としで破り10勝5敗と二桁勝利を挙げ、父と同じく新入幕で敢闘賞を受賞。親子で新入幕の場所に三賞を受賞したのは史上初めてのことである。最高位を東前頭11枚目まで更新した7月場所は6勝9敗の負け越しに終わるが、翌9月場所はわずか1枚減の東前頭12枚目の地位を与えられ、ここで8勝7敗の勝ち越しを収めて翌11月場所は最高位を西前頭7枚目まで伸ばした。その11月場所では4日目の千代鳳戦での取りこぼし(後述)もあって7勝8敗の負け越しに甘んじた。西前頭8枚目で臨んだ翌2015年1月場所は、千秋楽に宝富士の勝ち越しと敢闘賞受賞を阻むなどの奮闘を見せ、9勝6敗と勝ち越した。自己最高位の東前頭2枚目で臨んだ翌3月場所は、上位陣の壁に跳ね返されて9日目に早々と負け越しが確定したものの、10日目から6連勝して7勝8敗で場所を終えた。5月場所は東3枚目の地位で初日に関脇照ノ富士(この場所優勝して大関に昇進)を寄り切りで破り、4日目に横綱日馬富士を引っ掛けで破り初金星を獲得するなど4連勝のスタートを切る。その後連敗もあり13日目まで6勝7敗の成績だったが、14日目と千秋楽に連勝して8勝をあげ上位で初めて勝ち越した。しかし、三役目前の西前頭筆頭に番付を更新した2015年7月場所からは負け越しが続いている。西前頭10枚目まで番付を下げた1年後の2016年7月場所では、中日の時点で6勝2敗と好成績であったが、9日目から6連敗を喫し、年6場所制となった1958年以降では貴ノ浪らを抜いてワーストとなる幕内7場所連続負け越しの記録を作ってしまった。千秋楽は遠藤を押し出して連敗を止め、4場所連続の7勝8敗で場所を終えた。この結果に佐田の海本人は「今場所こそと思っていたんですが。続けば続くほど、変に意識してしまう。力不足じゃないですか」とコメントを残している。翌2016年9月場所は、14日目に新入幕の千代翔馬を押し出して8場所ぶりとなる勝ち越しを決め、「メチャ緊張した。勝ち越せてよかった」と頬を緩めた。この場所は同部屋の大関・豪栄道が初の幕内最高優勝を果たしているが、彼の活躍が刺激になっていたかと聞かれると「自分のことで精いっぱい」と苦笑いしていた。基本的に父と同じく右四つになって寄る速攻相撲を得意とし、立合いも真っ向勝負が多い。本人曰く、立合いのスピードは父に及ばないが、父よりも手足が長いので父から『お前には俺にはない投げがある』と評されている。新入幕会見では境川が佐田の海が昇進を掴んだ取り口について「投げも出ながらになり一つ一つの技の思い切りがよくなった」と証言している。しかし相撲が一本調子になりがちであり、父からも「相手を弾いて距離を作らないと。一発、二発、突き放してそこから中に入って行くことができれば、横綱・大関陣に対してひょっとしたら、というのが出てくるかもしれない。今は当たってすぐ懐に入ろうとするから、大きな相手には引っ張り込まれてしまう。しかも軽いから勝てない相手には全く勝てない」と評されている。速攻が得意である一方土俵際での粘りも強く、2015年の幕内で物言いがついた取組49番のうち6回が自身の取組であるという記録を持っていることから、「行司泣かせ」の異名を持つ。本人はこの土俵際での粘りについて「攻めて物言いがつくのはツメが甘いから。土俵際で逆転するのは下がっているから。下がっちゃうのは入門したときからの癖」と反省の言葉を並べている。2016年9月場所終了現在                                                                      

出典:wikipedia

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