テュイルリー宮殿(テュイルリーきゅうでん、)は、17世紀から19世紀まで使用されていたフランス・パリにある宮殿。ルーヴル宮殿の西側に隣接する。また、チュイルリー宮殿とも表記される。1563年に当時の摂政であった王母カトリーヌ・ド・メディシスが建造を命じ、フィリベール・ドゥ・ロルムの設計のもと、約100年の時を費やして完成した。1664年にはルイ14世の命で、ヴェルサイユ宮殿の庭園なども手掛けたル・ノートルによって泉水や散歩道などが整備され、現代に残る庭園を作り上げたが、1683年に王宮はヴェルサイユ宮殿に移る。再びテュイルリーに王宮が戻るのは、フランス革命最中の1789年のことであった(「ヴェルサイユ行進」を参照)。同時期、憲法制定国民議会において1791年憲法が制定され、1791年10月1日、テュイルリー宮殿で立法議会が開催されることとなった。1792年、8月10日事件が勃発し、ルイ16世が捕らえられたのちは、テュイルリーは国民公会や公安委員会の拠点として使用される。しかし、これら最急進的革命政府も長くは続かず、ヴァンデミエールの反乱の後で成立した総裁政府は、政府機能をリュクサンブール宮殿などに移動させ、国民公会も二分され、上院にあたる元老会はテュイルリーに残り、下院にあたる五百人会はブルボン宮殿に移っていった。後にナポレオン・ボナパルトが短期間だったが再び王宮として整備した。第一帝政、復古王政、七月王政、第二帝政の期間を通じて長く王宮(公邸)として用いられたが、1871年5月23日、パリ・コミューンの鎮圧の最中にコミューン側の兵士が放火し、焼失した。オテル・ド・ヴィル(パリ市庁舎)やルーヴル宮殿の一部などパリ・コミューン時に焼失した建物は外壁を再利用して逐次再建された。しかし、外壁のみの廃墟となったテュイルリー宮殿は再建可能な状態であったものの王政・帝政の遺物として撤去が決まり、反対運動の中1883年に外壁が解体された。現在では庭園(テュイルリー庭園、)のみが残り、当時の面影を伝えている。2003年、フランス政府はテュイルリー宮殿再建委員会を設置し、焼失した宮殿の再建計画を打ち出した。再建にかかる費用は約3億ユーロと推定され、税金は投入せず、全額を民間からの寄付で賄うとしている。再建後は、展示スペースが不足している隣接のルーヴル美術館から収蔵品の一部を移転し、展示を行うなどの活用方法が検討されているが、現在のパリの景観を崩してしまうという反対意見もあり、2016年現在計画は棚上げ状態である。
出典:wikipedia
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