LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

満州国陸軍軍官学校

満州国陸軍軍官学校(滿洲國陸軍軍官學校、まんしゅうこくりくぐんぐんかんがっこう)は、満洲国新京特別市浄月区同徳台(現在の中華人民共和国吉林省長春市洋浦大街)に存在した、満洲国陸軍の軍官学校(士官学校)である。略称は軍校。満洲帝国陸軍軍官学校、あるいは単に陸軍軍官学校と称した。また、相武台(陸軍士官学校)、振武台(陸軍予科士官学校)、修武台(陸軍航空士官学校)等と同様に、所在地に同徳台(どうとくだい)という地名が付けられたことから、通称を同徳台、そこから同徳台陸軍軍官学校とも呼ばれた。日本語の「士官学校」を満語(中国語)では「軍官学校」といい、「満洲国陸軍士官学校」ではなく「満洲国陸軍軍官学校」と称した。満洲国軍の教育機関は1932年(大同元年)に設立された2年制の中央陸軍訓練処(のち奉天軍官学校に改称、1942年(康徳8年)に陸軍訓練学校へ改編)に端を発する。中央陸軍訓練処は、在来(軍閥)の軍隊を主体として設立した満洲国軍を真の国軍とするため、国軍幹部養成の綜合的教育機関として設立された。本校は1939年(康徳6年)4月に、満洲国軍の正規課程に基づく軍官(士官)を育成する機関(士官学校)として、陸軍軍官学校令(康徳6年3月10日勅令第50號)に基づき、新京特別市郊外、二道河子より東方約8粁、吉林街道沿いの拉々屯台地(南崗台地)に設立された。日本人将校を育成するだけの学校ではなく、台湾人、朝鮮人、満洲人が同じ教育・訓練を受けた士官学校である。なお、蒙古系満洲人に対しては、1934年(康徳元年)7月に蒙古人軍官養成を専門とする興安軍官学校が設立され、1939年(康徳6年)10月に陸軍興安学校に改称した。1939年(康徳6年)4月に入学した1期生(満系)をはじめとして、1944年(康徳11年)12月に入学した7期生が最後の満洲国陸軍軍官学校の生徒となった。満洲国及び満洲国軍の解散後、跡地は国民政府に接収され、国共内戦後は中国人民解放軍戦車第三編練基地となる。現在同地にはが立つ。生徒は午前6時起床、点呼終了後、まず最初に天皇の居住する東方(宮城)に向かって宮城遥拝した後、再度満洲国皇帝の居住する西方(満洲国皇宮)に向かって宮城遥拝して一日を始めた。午前は学科の授業を行い、午後は練兵場や屋外で撃剣・銃剣術・柔道・歩兵戦闘技術などの術課教育を受けた。日本人は「日系生徒」、それ以外は蒙古人、朝鮮人などもまとめて「満系生徒」として区別されていた。日系生徒と満系生徒はそれぞれ別の教育中隊に分けられた。満系生徒の場合、2個中隊8区隊に編成され、1個区隊(小隊)は30人から構成された。満系生徒は中学校から試験を受ける事が出来たが、日系生徒は独自の試験がなく、内地の陸軍予科士官学校などの志願者から選抜されていた。日系生徒は満洲で予科卒業後、本科は全員が内地の陸軍士官学校(陸士)、陸軍経理学校、陸軍航空士官学校へと戻り、日本軍の幹部候補生(幹候)とともに学んだ。また満系生徒も予科卒業生のうち、選抜された成績優秀者は日本陸士編入特典が付与された。第二次世界大戦後、満系生徒たる朝鮮人出身者の多くは軍事英語学校を経て南朝鮮国防警備隊、そして大韓民国国軍に入った。彼らは出身校や軍官学校で培った横の繋がりが非常に強く、その結果、同期で南朝鮮労働党に感化されて麗水・順天事件の折に粛軍運動の犠牲となった者も少なくなかったが、粛軍を免れた者は日本陸士・幹候出身者同様に軍内部で出世する事が出来、また5・16軍事クーデターでの強力な支持基盤ともなった。一方で、朝鮮建国準備委員会の指示でソ連占領地域に渡り、朝鮮人民軍創設に携わった南朝鮮国防警備隊将校の多くが満洲国軍出身者だった。当初正規の軍事訓練を受けた事で八路軍や東北抗日聯軍出身者からは歓迎されていたが、翌年になると旧満洲国軍出身者のほとんどが投獄されたという。唯一、満洲国軍航空兵中尉だった朴承煥は釈放後に出世して朝鮮人民軍の航空副司令官になったとも、釈放されずそのまま収容所で獄死したともいわれる。1945年(康徳12年)6月、予科卒業が近い6期生は戦況悪化に伴い内地進学が中止となる事を危惧しており、その数名が中隊長や区隊長に無断で関東軍司令部に直訴、これが通り、したがって終戦時生徒は7期生のみが満州に残っていた。ポツダム宣言受託直後、ソ連侵攻の情報が流れる中で建国大学幹部が中心となり独自に朝鮮との国境付近に拠点を作る動きがあり、軍官学校の教官や生徒にも部隊を離脱し参加するよう呼びかけがあった。しかし生徒参加は軍官学校幹部が頑として応じず、結局参加したのは教官ら3人だけであり、しかも豪雨で阻まれ参加は頓挫した。その後、新京に進駐した赤軍(ソビエト連邦軍)によって軍官学校の生徒や教官は捕虜となり、シベリア抑留で7期生の中でも95名が死亡したとされる。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。