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米田吉盛

米田 吉盛(よねだ よしもり、1898年11月10日 - 1987年5月17日)は、日本の教育者。神奈川大学創立者。昭和期の政治家。衆議院議員(4期)。愛媛県喜多郡満穂村(現内子町)論田で、村役場の書記を務める父良吉、母サヨシの元に生まれる。江戸時代には製蝋の盛んな地域であり、当時は養蚕も盛んであった。十五の時、京都の呉服屋に丁稚奉公にいく。この丁稚奉公は一年で切り上げ、第一次世界大戦後の景気に沸く台北・基隆市の山本金物店に勤め学費を稼ぐ。二十歳の時、徴兵検査を受けるが右目の視力が弱かったため丙種合格(現役に適さない)となったため七月に上京、四谷の新聞配達店で働きながら勉学を積む。その後、中央大学専門部法学科に入学、弁論部「辞達学会」に入部し、弁論を磨いた。1927年、金融恐慌が起こり、銀行の統廃合が進む一方、とくに農村は深刻な不況に見舞われた。こうした混乱した社会に「民族の危機」を感じていた米田は、自分と志を同じくする中正堅実な青年を一人でも多く育成するという使命感を持ち、横浜学院(横浜専門学校を経てのちの神奈川大学)を開校した。横浜学院の設置学科は夜間部の法学科と商業経済科の二科であった。米田の学校創立事業には有力な協力者がいた。中央大学の恩師林頼三郎、樋貝詮三、太田哲三である。1942年任期満了による第21回衆議院議員総選挙に、地元愛媛の選挙区で非推薦で立候補し当選(翼賛政治体制協議会が推薦候補を擁立するなかで、米田は「選挙に政府が介入するのは公選精神に反する」と考え非推薦で立候補、当選している)。1946年に行われた戦後第一回総選挙(第22回総選挙)に米田は立候補、「私のすべての政策は如上の天皇制擁護と国民協同自治の理念から出発する」とし、天皇制擁護と国民協同自治を政見の要点とするも落選。1947年4月の新憲法下で行われた第23回総選挙に立候補、今度は慎重に選挙を戦って当選。1952年第25回総選挙に神奈川県第1区から立候補するも落選、翌年の第26回総選挙には出馬せず、第27回総選挙に立候補しトップ当選。米田の政見は、外交は隷属秘密外交を自主独立の国民外交に切り替え、アジアとの善隣外交で貿易を振興する。内政については先ず第一に国民生活を復興し、没落しつつある中産階級の維持こそ大切とした。中小企業を長期大巾金融で振興し、農村恐慌は安い肥料と土地改良資金の融資、農産品価格の適正化と消費者を圧迫せぬ二重価格制をとること。不幸な人の救済のための大量の住宅建設、戦争犠牲者戦争未亡人の救済、婦人の地位向上、教育の刷新、内容の日本化、教育の質の向上、育英資金の大幅増加、横浜復興の国費支弁要求などであった。1957年の岸信介内閣改造に伴い厚生政務次官に就任。日本医師会会長武見太郎と診療報酬問題でわたりあい一歩も退かなかったため、反感を買い「あの生意気な政務次官を叩き落せ」との指示が横浜医師会に出されたという。1955年、横浜でただ一人の自民党代議士であった米田の元に桜木町 - 大船間の国鉄延長の話が舞い込む。米田の運動の甲斐もあって1957年7月5日運輸大臣の建設許可が下りる(根岸線)。

出典:wikipedia

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