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富士氏

富士氏(ふじし、ふじうじ)は、日本の氏族。駿河国富士郡富士上方の領主。富士山本宮浅間大社の大宮司を継承する社家であったため、富士大宮司家とも称される。また戦国期には富士城城主を務める武家であった。時代により差異は考えられるが、浅間大社の神職の中で「富士氏」を称していたのは、富士大宮司を筆頭に以下公文・案主の3つの神職の家柄であった。慣例として富士大宮司が政治的な部分を執り行ない、案主・公文は庶子衆とも呼ばれていた。また室町時代においては、大宮司職の補任権は足利将軍家にあった。江戸期には富士大宮司と公文・案主間で争論が生じたが、幕府裁許状に「公文・案主事、大宮司同格とは不可心得」とあるように、富士大宮司は富士家の中で別格な存在であった。家紋は「棕櫚(しゅろ)」であり、『羽継原合戦記』に「シュロノ丸ハ富士ノ大宮司」とある。また江戸幕府の裁許状の中には「棕櫚葉之紋」とある。この棕櫚紋は富士大宮司のみが用いるものであり、「公文富士能成等返答書控」「富士信安父子連署請書写」には棕櫚紋は古来より富士大宮司のみが使用してきたとある。このように、同じ富士家一族でも公文富士氏・案主富士氏は棕櫚紋を容易に使用できるものではなかった。富士氏は国人領主であり、また今川氏・武田氏・後北条氏と関係が深い。それら中世を中心とする文書群の一部は現在「大宮司富士家文書」として保存されている。元は富士重本以後の富士家当主である富士高茂氏がこれら文書を保持しており、東京大学史料編纂所が明治期と昭和期にこれを採録するなどしている。また『静岡県史料』にも60通が収録された。後にこれら原本の文書は流出し、あるときはうち36通もの文書の売却が検討される状況に至った。これを危惧した村田正志が売却の保留を促し、静岡県の美術館が購入することとなった。現在は静岡県立中央図書館がその36通を保管しており、「富士山関係資料デジタルライブラリー」にて公開されている。始祖は孝昭天皇の後裔であり豪族の和邇部氏と伝わる。現在の滋賀県にいた和邇部氏は801年に駿河国富士郡に進出してきたとされる。和邇部氏の進出の理由は明らかでないが、坂上田村麻呂の東征に従って進出したともいわれる。富士山を祀る浅間神社(現在の富士山本宮浅間大社)は和邇部氏が進出する700年ほど前から祭祀を行っていたが、それまで宮司を務めていた者については不明である。富士家の初代と伝わる豊麿は、和邇部氏の長の17代目であり、駿河国富士郡の郡司であった和邇部宿禰の子孫である和邇部宿禰宗人の子とされ、富士郡大領となったことを機に浅間神社の神主となったと伝わる。それにより富士姓を名乗ったことが富士氏の発祥とされ、富士郡を支配する地位にあった。富士直時の書状では、少なくとも14世紀には既に、富士郡富士上方(現在の富士宮市一帯)を支配する氏族として存在していたことが分かる。他富士上方の社寺に対して諸役免除を行うなど、富士郡領主として存在し続けた。南北朝時代には既に武家としての面が確立されていた。観応の擾乱の際には、観応2年(1351年)に上杉憲将により甲斐国への通路の警護を命ぜられている。駿河国国主である今川家の当主今川範政亡き後、千代秋丸と今川範忠両氏での家督争いが発生した。その際富士氏は千代秋丸を支持しており、範忠の入国に反対する立場を取っている(『満済准后日記』永享4年7月19日条・永享4年7月20日条)。しかし室町幕府将軍である足利義教の裁定の影響は大きく、範忠が家督相続することで落ち着いた。情勢的には富士氏ら千代秋丸派は範忠から反逆者として追討されてもおかしくない運命であったが、折しも室町幕府と鎌倉府との対立が深刻化しており(永享の乱)、富士大宮司および富士家一族の富士右馬助は室町幕府から忠節を求められるという状態であった。また享徳の乱の際は今川範忠とは別個に室町幕府から協力を求められ、関東上杉家勢(扇谷上杉家)として古河公方勢と対峙した。この時代の当主は富士忠時または富士親時であるが、このような動向から15世紀の富士氏は今川氏に属していないと考えられている。一方寛正期の富士家は家督相続を巡る混乱期でもあり、瑞渓周鳳の日記である『臥雲日件録』には「駿州国人富士父子闘争之事」とあり、『親元日記』には「富士兵部大輔入道親子確執之儀」とある。戦国時代の富士信忠の代に入ると、今川氏と関係を密にしていく。大永元年(1521年)に今川方の軍が甲斐の河内に侵入した際、武田信虎が総攻撃を行った。その際富士氏は今川方の軍として戦い、信虎軍に破れている(『勝山記』永正18年辛巳条)。また今川氏輝により当主の嫡子である富士宮若へ馬廻としての奉行を求める文書が発給されるなど、氏輝期には既に関係が深い。富士氏の本拠である富士大宮は河東の乱でいうところの河東に該当する地であり、その不安定な政治情勢下から一部富士家内部で分裂が生じるなどしているが、基本的に今川氏に属している。当主が変わり今川義元の代においてもこの関係は同様であったが、桶狭間の戦いにて義元が戦死すると駿河国は動揺する。今川氏に対する離反が重なる中、富士氏は今川陣営として留まった。次代の今川氏真により永禄4年(1561年)7月20日に信忠は大宮城城代に任命され、大宮城城主として武田氏との戦いを繰り広げる(大宮城の戦いについては大宮城を参照)。また富士氏一族の富士又八郎は、謀反を起こした飯尾連竜討伐に参加するなどしている(飯田口合戦)。永禄9年(1566年)には今川氏真により富士氏の本拠である大宮の六斉市を楽市とする朱印状が信忠に送られており、氏真の政策を担う部分もあった。またこの楽市令については、富士氏側の要請によって今川氏が諸役停止を確定づけた楽市令であるという見方が多い。しかし武田氏の駿河侵攻における大宮城の戦いにおいて、戦は本格化していくこととなる。この時期は緊張状態にあり、永禄12年(1569年)の北条氏康からの書状では「昼夜御辛労令職察候」とある。しかし武田信玄本隊の攻撃によりついに富士城は開城、穴山信君を通し降伏することとなる。その後も後北条氏からの援護を受けるものの、武田氏に付くことを決断し武田氏に帰順する。また帰順後、信忠は武田家家臣の鷹野氏の能通に富士姓を与え、富士家の公文職に迎えるなどしている(富士能通)。当主が変わり武田勝頼の代では、富士信通が改めて富士大宮司に任命されている。しかし武田氏に属してからは社中の法度が定められるなど武人としての活動は制限され、富士大宮司としての活動が主となった。中世後期より次第に富士氏は神職としての姿にのみ統一されていき、近世に入ると富士氏は富士山を管理・支配する立場としても確立されていた。例えば徳川忠長が駿府藩主であった頃、「みくりや・すはしりの者共嶽へ上り、大宮司しはいの所へ入籠み、むさと勧進仕るに付て、大宮司迷惑の由申され候」といった文面の通達が忠長の家臣である朝倉宣正・鳥居成次から地方奉行に出されている。このように、この頃より富士山本宮浅間大社が富士山頂の支配・管理を行なっており、その代表格である富士大宮司の支配の地として富士山麓周辺の地から認識されていた。他に須走村の書付に、3カ条の1つとして「富士山登道行合より八葉内、大宮町大宮司殿、宮内殿、民部殿、宝当院と申而四人之衆御支配二御座候」とある。これは八合目以上は浅間大社の神職(富士大宮司・公文富士氏・別当)および須走浅間神社の神職(民部殿)が支配する地という認識を示していることを意味するといい、このように富士氏が山頂においての権限を保持していた。幕末の頃、最後の富士大宮司である富士重本(富士亦八郎)は、大宮司が代々国学を学んでいたこともあり、駿州赤心隊を結成し、官軍の側について戊辰戦争等で活躍した。だが、富士山本宮浅間大社は徳川家康によって本殿を造営(再建)されており、地元の人々は徳川家と縁が深く、また、大政奉還後に生まれた静岡藩に徳川慶喜が移住すると、それに伴って江戸幕府の御家人の大半も静岡藩に移り清水次郎長の開墾した土地に定住するなどしたため、官軍の側についた富士氏は大社付近の地域では敵視されるようになっていった。その結果、富士大宮司の家などが焼き討ちにあい略奪を受けるなどしたため、富士重本は地元に帰ることができず、大宮司を務めることもできなくなった。明治3年以降、大社の宮司は内務省から直接任命される官選となり、富士氏が大宮司を務めることはなくなった。富士重本は東京府にとどまり、招魂社(現在の靖国神社)の神職となり、東京府の麹町区(現在の東京都千代田区)の区長を務めるなどした後、明治30年に亡くなった。

出典:wikipedia

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