耶律海里(やりつ かいり、生没年不詳)は、遼(契丹)の政治家・軍人。漢名は景。字は留隠。令穏耶律抜里得の長男として生まれた。天禄5年(951年)、耶律察割が世宗を殺害したとき、海里の母の的魯は察割のもとにいた。察割が海里を召しだそうとしたが、海里はこの誘いを拒絶した。察割の乱が平定されると、的魯は海里の節義のために察割に協力した罪を許された。海里は質素な生活を営み、名利を好まず、狩猟を楽しむのみであった。保寧元年(969年)、彰国軍節度使に任じられ、惕隠に転じた。任期を終えると、病と称して出仕しなかった。長らくたって南院大王として復帰した。統和4年(986年)春、北宋の曹彬・米信らが燕雲十六州奪回のために進攻してくると、海里は宋軍を迎え撃った功績で、資忠保義匡国功臣の称号を賜った。海里は南院にあること十数年、穏健な統治で戸口も増加した。12年(994年)1月、上京留守となり、漆水郡王に封じられた。
出典:wikipedia
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