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足利義輝

足利 義輝(あしかが よしてる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:1546年 - 1565年)。天文5年(1536年)3月10日、第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれる。幼名を菊童丸。誕生直後に外祖父・近衛尚通の猶子となる(『後法成寺関白記』天文5年3月11日・4月6日条)。この頃の幕府では父・義晴と管領の細川晴元が互いの権威争いで対立し、義晴は戦をするたびに敗れて近江坂本に逃れ、菊童丸もそれにたびたび従った。その後も父と共に京への復帰と近江坂本・朽木への脱出を繰り返した。天文15年(1546年)12月、菊童丸はわずか11歳にして、父から幕府将軍職を譲られる。父・義晴がかつて11歳で元服・将軍宣下を行ったことに加え、自身が健在のうちに実子に将軍の地位を譲ってこれを後見する考えがあったとされる。このときの将軍就任式は亡命先である近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官・樹下成保の第で行われ、六角定頼を烏帽子親として元服し、義藤(よしふじ)と名乗った。天文17年(1548年)、義晴は晴元と和睦して京に戻った。このとき晴元も義藤の将軍就任を承諾している。ところが、細川晴元の家臣で、畿内に一大勢力を築きつつあった三好長慶が晴元を裏切って細川氏綱陣営に転属。天文18年(1549年)6月、江口の戦いで長慶に敗れた晴元によって義晴・義藤父子は、京都から近江坂本へ退避し、常在寺に留まった。天文19年(1550年)5月、義晴が穴太にて死去。義輝は父が建設を進めていた中尾城で三好軍と対峙したが、戦局が好転しないまま11月に中尾城を自焼して堅田へ逃れ(中尾城の戦い)、翌年に朽木へ移った。天文20年(1551年)、義藤は京の伊勢貞孝の屋敷に長慶が呼ばれるとの情報を得ると奉公衆の進士賢光を伊勢邸に潜入させ、長慶を暗殺しようと目論んだが失敗した。賢光による暗殺劇は長慶に軽い手傷を負わす程度の不首尾に終わってしまい、賢光はその場で自害して果てた。天文21年(1552年)1月、細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶と和睦し、京に戻った。ただし将軍とは有名無実で、長慶とその家臣・松永久秀の傀儡であった。天文22年(1553年)に晴元と協力して長慶との戦端を開くも敗退。再び近江朽木へ逃れ、以降5年間をこの地で過ごした。なお、亡命中の天文23年(1554年)2月12日、名を義輝に改めている。なお年号が永禄に改元された際、朽木谷にいた義輝は改元を知るのに3か月かかり、それまで古い年号の弘治を使用し続けることとなり、朝廷に抗議している。永禄元年(1558年)5月、六角義賢(承禎)の支援で晴元とともに坂本に移り、京の様子を窺う。翌月、如意ヶ嶽に布陣して三好長逸らの軍と交戦した。一時期は六角義賢の支援を受けた義輝側が優勢であったが、長慶の弟・三好実休の反攻を受け、さらに六角義賢からも支援を打ち切られたために戦況は思うように展開しなかった(北白川の戦い)。11月、六角義賢の仲介により長慶との間に和議が成立したことに伴って、5年ぶりの入洛が実現し、御所での直接的な幕府政治を再開。この年の12月28日には、伯父である近衛稙家の娘を正室に迎えている。長慶はなおも権勢を高め、幕府の御相伴衆に加えられ、さらに官位の修理大夫に推挙されたが、同時に義輝の臣下として幕府機構に組み込まれることとなった。ただし、長慶も義輝の権威に自らが取り込まれる危険性や長年対立してきた自身と義輝の和解が難しいことは理解しており、永禄2年(1559年)12月に嫡男・孫次郎が義輝から偏諱を拝領して義長(後に義興)と名乗り、翌3年(1560年)1月に義長が三好氏代々の官途であった筑前守に任ぜられると、長慶は三好氏の家督と本拠地である摂津国芥川山城を義長に譲って、河内国飯盛山城に移っている。長慶は自身は義輝との一定の距離を置きつつ、三好氏の新当主となった義長(義興)と義輝の間で新たな関係を構築することで関係の安定化を図ったとみられている。義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。伊達晴宗と稙宗(天文17年(1548年))、里見義尭と北条氏康(天文19年(1550年))、武田晴信と長尾景虎(永禄元年(1558年))、島津貴久と大友義鎮、毛利元就と尼子晴久(永禄3年(1560年))、松平元康と今川氏真(永禄4年(1561年))、毛利元就と大友宗麟 (永禄6年(1563年))、上杉輝虎(長尾景虎改め)と北条氏政と武田晴信(永禄7年(1564年))など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行った。また懐柔策として、大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、三好長慶・義長(義興)父子と松永久秀には桐紋使用を許した。さらに自らの名の偏諱(1字)を家臣や全国の諸大名などに与えた。例えば、「藤」の字を細川藤孝(幽斎)や筒井藤勝(順慶)、足利一門の足利藤氏・藤政などに、「輝」の字を毛利輝元・伊達輝宗・上杉輝虎(謙信)などの諸大名や足利一門、藤氏・藤政の弟である足利輝氏などに与えた。また島津義久、武田義信などのように足利将軍家の通字である「義」を偏諱として与える例もあった。永禄年間には信濃国北部を巡る甲斐国の武田信玄と越後国の長尾景虎との川中島の戦いが起きており、義輝は両者の争いを調停し、永禄元年(1558年)には信玄を信濃守護に補任するが信玄はさらに景虎の信濃撤退を求め、義輝は景虎の信濃出兵を認め、永禄4年(1561年)には信玄に駆逐され上方へ亡命していた前信濃守護・小笠原長時の帰国支援を命じている。また長尾景虎の関東管領就任の許可、御相伴衆を拡充し、毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、斎藤義龍、今川氏真、三好長慶、三好義興、武田信虎らを任じた。永禄元年(1558年)の義輝の帰京以降も三好長慶の権勢は続いたが、それに反発する畠山高政と六角義賢が畿内で蜂起し、三好実休が戦死する(久米田の戦い)と、三好氏に衰退の兆しが見え始めた。こうした中、永禄5年(1562年)に長慶と手を結び幕政を壟断していた政所執事の伊勢貞孝が長慶と反目すると、義輝は長慶を支持してこれを更迭し、新しく摂津晴門を政所執事とした。これに激怒した貞孝は反乱を起こしたが、9月に長慶の手で討たれた。これによって、かつての3代将軍、足利義満の介入すら不可能だった伊勢氏による政所支配は歴史に幕を閉じ、幕府将軍による政所掌握への道を開いた。永禄2年(1559年)、大友義鎮を九州探題に任命し、九州の統治を委ねた。もともと、九州探題は足利氏一族の渋川氏が世襲していたが、少弐氏と大内氏の抗争に巻き込まれてすでに断絶していたため、これを補うための補任であった。大友家は九州において、足利将軍家に最も親しい有力守護大名である(この時、大友義鎮は豊後・豊前・筑後・筑前・肥後・肥前の守護および日向の半国守護を兼ねていた)。永禄7年(1564年)7月に長慶が病死。義輝はこれを機に幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。しかし、傀儡としての将軍を擁立しようとする松永久秀と三好三人衆にとっては、将軍家の直接統治に固執する義輝は邪魔な存在であった。久秀の長男松永久通と三人衆は足利義稙の養子・足利義維(義輝の叔父)と組み、義維の嫡男・義栄(義輝の従兄弟)を新将軍にと朝廷に掛け合うが、朝廷は耳を貸さなかった。一方で義輝が頼みとする近江六角氏は永禄6年(1563年)の観音寺騒動以降、領国の近江を離れられなくなっていた。永禄8年(1565年)5月19日、久通と三好三人衆は主君・三好義継(長慶の養嗣子)とともに清水寺参詣を名目に集めた約1万の軍勢率い二条御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽り取次ぎを求めた(永禄の変)。義輝は自ら薙刀を振るって奮戦したが衆寡敵せず、最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり、殺害された(または、槍で足を払われ、倒れたところに上から刺し殺されたともいう)。享年30(満29歳没)。この時、摂津晴門の嫡子・糸千代丸も一緒に討ち死にした。また、義輝の生母である慶寿院も殉死している。辞世の句は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」※ 日付=旧暦一般には一男一女とされ、息子は輝若丸(永禄5年(1562年)4月生 - 同年7月15日没)のみであるが、非公式に義輝の息子といわれる人物が2名知られている。

出典:wikipedia

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