ここでは、赤穂事件を扱った演劇、文芸作品、映像作品その他のフィクション、および評論について説明する。赤穂事件がはじめて舞台に取り上げられたのは、討ち入り決行の翌年である元禄16年の正月、江戸山村座の『傾城阿佐間曽我』(けいせいあさまそが)の五番目(大詰)である。曾我兄弟の仇討ちという建前で赤穂浪士の討入りの趣向を見せた。以降、浄瑠璃・歌舞伎の人気題材となり、討入りから4年後の宝永3年(1706年)には、この事件に題材をとった近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が竹本座で上演されている。そしてその集大成が45年後の寛延元年8月(1748年8月)に上演された二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳合作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が初演され、同年12月(1749年1月)には歌舞伎として上演された。同作は多くの観客を呼び、事件を元にした作品群の代表的存在となっている。その他にも以下の作品がある:外伝:講談で盛んに口演されたこともあり、落語では、『仮名手本忠臣蔵』がくすぐりや落ちとして使われることもある。『仮名手本忠臣蔵』そのものを題材とする場合もある。なお、各段に対する落語は複数存在し、赤穂市総務部市史編さん室の『忠臣蔵第四巻』には「十段目」という話が6つも載っている。また八段目と十一段目を題材とした落語は存在しないといわれている事もあるが、同書には「八段目」と「十一段目」がそれぞれ一つずつ載っており、その他に「八段目道行」、「十一段目大切かたき打」という話も載っている。この他、新作落語では『仮名手本忠臣蔵』全体を題材にすることも試みられている。『吉良の忠臣蔵』(立川志らく)、『カマ手本忠臣蔵』(柳家喬太郎)、『AKO47~新説赤穂義士伝~』(月亭八方)などの作例がある。花柳界では、人気のある芝居をもとにした端唄や小唄が作られることがある。『忠臣蔵』では「笹や節」が代表である。『忠臣蔵』を元とした浪曲『義士伝』が直接の参照元といわれ、俗曲に分類される曲でありながら、浪曲的な歌い方をする個所がある。歌詞については流派により異なるが、内容としてはほぼ同じなため、以下に歌詞の一例をあげる。なお日露戦争の停戦会議(ポーツマス会議)の仲介役となった第26代米大統領セオドア・ルーズベルトは、忠臣蔵の英語訳本を愛読していたとの逸話がある。忠臣蔵は小説作品の題材としても多く用いられている。代表的なものは、大河ドラマ化された大佛次郎『赤穂浪士』、赤穂浪士たちを刺客として描き映画化された池宮彰一郎『四十七人の刺客』などがある。映画の時代になると忠臣蔵も題材として使われ、最初の作品は1907年(明治40年)に製作された『忠臣蔵五段目』である。ただし、この作品は十一代目片岡仁左衛門の襲名公演の模様を収録(保存を目的として撮影)したものであり、劇映画としての最初の「忠臣蔵」作品は、1910年製作の牧野省三監督・尾上松之助主演による『実演・忠臣蔵』とされる。これ以後、多数の忠臣蔵映画が製作された。大石内蔵助を多く演じた俳優では、戦前では尾上松之助が、戦後では八代目松本幸四郎が挙げられる。登場人物が多彩なためオールスターキャストでの演出が可能な忠臣蔵は人気ジャンルとなり、戦前から戦後にかけて本伝ものだけで80本以上の作品が製作されている。戦後も「忠臣蔵」は人気題材であり続け、テレビの時代になると多数のドラマが製作されている。芸能界でも、ドラマで主役の大石内蔵助を演じることは、役者として最高の誉れとされている。それを逆手に取り、箔をつけたい俳優が大石役を格安の出演料で出演オファーを了承しその浮いた分で脇役の俳優陣を充実させるといった駆け引きも行なわれたという。1964年にNHKで製作された大河ドラマ『赤穂浪士』は当時の大映の看板俳優・長谷川一夫を大石内蔵助役にして、平均視聴率は30%を越え、討ち入りの回の視聴率は53%という高い人気を誇った。大河ドラマではその後3度(1975年『元禄太平記』、1982年『峠の群像』、1999年『元禄繚乱』)も忠臣蔵が題材に取り上げられている。現在に至るまで、オーソドックスな展開のものから、公儀(幕府)・他藩や女性(夫人)側からの視点、本音は討ち入りをしたくなかった大石内蔵助、SF的なものなど、様々な趣向をもった忠臣蔵ものが、多数製作されている。戦後は、赤穂事件を単なる復讐ではなく、幕府への反抗として解釈するものが多い(大河ドラマ「元禄繚乱」、「大忠臣蔵」など多数)。なお、『水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)』でも赤穂事件の数年前の大石内蔵助がしばしば登場し、第28部第24話で横内正が、第42部第11話と第15話で市川右近が大石を演じた。
出典:wikipedia
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