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SB (航空機)

ツポレフ ANT-40、または軍用名で知られるツポレフ SB(エスベー; - "Skorostnoi Bombardirovschik" - "高速爆撃機"の意)、 開発共同名TsAGI-40 は双発単葉3人乗りの高速爆撃機である。初飛行は1934年。この機体の名称には、SB 2M-100Aのように機種記号(SB)の後にエンジン名(M-100A)が続き、2とはエンジンの数を表す。このためSB-2という型があるとの誤解が生じたが、SBの機種記号を使った爆撃機は他にはない。機体の設計は非常に先進的であったが洗練さには欠けており、搭乗員や整備員らをひどく狼狽させ、ヨシフ・スターリンからは「軍用機に些細なことは存在しない。」と指摘された。SBは1930年代後半の世界の爆撃機では機数の上で最も大きな地位を占め、ソビエト連邦で生産された最初の近代的な応力外皮構造の航空機であり、おそらく1930年代中盤の爆撃機でもっとも手強い航空機であろう。様々な型がスペイン(スペイン内戦)、中華民国(日中戦争)、ノモンハン、フィンランド(冬戦争)そして第二次世界大戦初頭1941年の対ドイツ戦と広範囲にわたって活躍した。また、民間機用や練習機用、副次的な任務用など多岐にわたり使用されている。スペイン内戦でほとんどの戦闘機を引き離すという良好な成績だったが、1941年までには旧式化した。1941年6月までに、赤色空軍(VVS)の爆撃機の94%がSBとなっていた。1933年、ソビエト空軍大臣(UVVS)は高速爆撃機の要求概要を提示した。この提案の研究は中央航空流体力学研究所(TsAGI)で1934年1月より始められた。SBはツポレフ設計局のA・A・アルハーンゲリスキイ率いるチームにより設計開発された。ライトサイクロン・星型エンジン搭載型(ANT-40 RTs)と、イスパノ・スイザ Y12()・液冷V12エンジン搭載型(ANT-40 IS)の2種が計画された。MI-3()およびDI-8両航空機の設計で得られた技術は広く利用されていた。最初の2種のプロトタイプは、ANT-40.1とANT-40.2として設計された。 サイクロン搭載の試作機は1934年10月7日に初飛行し、大型翼が特徴のイスパノ・スイザ搭載機 (ANT-40)は同年12月30日の飛行でより優れた性能を示した。2番目のイスパノ・スイザ搭載機ANT-40は生産を考慮されたプロトタイプで、その性能は印象的であった。それはしかしながら初期の問題に悩まされており、セルゴ・オルジョニキーゼ重工業人民委員の視察前に、試験要員が機体の欠陥を記載した張り紙でANT-40を覆ってしまうという事態を招いた。これらの張り紙を見たオルジョニキーゼはそれらの不足を検討するため、ツポレフをクレムリンの議会に呼び出した。この時ツポレフが表明した欠陥のほとんどは些細なものばかりであった。これを聞いていたヨシフ・スターリンは次のように述べたとされる。 1935年末、ANT-40の飛行試験プログラムが完了する前に、SBと呼称された最初の生産機が製造ラインに乗せられた。SBは1936年に本格的な生産に入り、モスクワの第22国営航空工場とイルクーツクの第125工場の2箇所の工場で1941年まで生産された。製造において、流れ作業が修正の絶え間ない連続に悩まされたという事実にもかかわらず、1936年末までに約400機のSBが納品され(その多くがスペインへ引き渡された)、ソ連空軍の24個飛行中隊が新型爆撃機の慣熟の過程にあった。スペイン内戦において非常に優れた性能を示したことから、SBは「カチューシャ」の通称を得ることとなった。1937年、SB爆撃機の供給及び現地製造権と、シュコダM1936 75mm山砲()の製造権引き替えを目的とするソビエト・チェコスロバキア両政府間の協定が成立した。供給されたSBと、後にアヴィア B-71としてライセンス生産されたバージョンは基本的にはSB 2M-100Aであったが、アヴィア製はイスパノ・スイザ 12-Ydrsエンジンを搭載していた。機首の連装ShKAS機関銃と単装7.92 mmZB-30軽機関銃が取り替えられ、背部と下部の銃座にも同類の火器が装備された。60機の機体が1938年中頃までにチェコスロバキアへ運ばれる予定であった。ライセンス生産の計画予定は、ますます危険な政治状態にもかかわらず着実に進行していった。1939年3月15日、ドイツ軍がボヘミア・モラビアを占領した時、チェコ製の機体は1機も届けられていなかった 。SBの開発は、スペインにおける初期の戦訓を反映した改良を受けて同時に継続された。パイロット達をSBの飛行に転換するという問題に直面した際、練習機型のUSB(教習・複操縦用の開放式コクピットに機首を変更)が1937年9月に製作された。 また、機首銃の旋回に限界があり、正面からの攻撃に対してほとんど使用されないという機体武装の問題にも直面した。後の機体はより広い射角を持つよう変更された。1940年からは背面銃座が閉鎖型のターレットに取り替えられ、同時に下部銃座も(有効に使うことは困難であったが)変更されている。SBの機体も性能向上したエンジンの搭載により進歩していった。その最初はクリーモフ M-100(イスパノ・スイザ12Ybrsエンジンのライセンス生産版)搭載機であったが、これはすぐにより強力なM-100A、そして1938年からは更に強力なM-103に換装された。SB 2-M103のエンジン換装は、最初にM-100搭載機の前面ラジエーターが引き起こされている間に、下部にラジエーターを提げた改良型エンジンの取付けを行う。1937年9月2日、M・Yu・アレクセーエフ(M.Yu. Alexeev)はM-103搭載のSBで積載量、の公認高度記録を飾った。彼は早い時期にという非公式記録を作っていた。1939年までに旧式化したSBの更なる性能向上の試みとして、SBの直接の代替機と専門の急降下爆撃機の2種の次世代バージョンの開発が認可された。SB-MNまたはMMNとして知られる水平爆撃機は翼面が減少した新型の翼を持ち、より強力なクリーモフ M-105エンジンを搭載されている。性能はスタンダード機よりも僅かに優れていたが、それでも放棄されてしまった。SB-RKと呼称された急降下爆撃機(ツポレフが失脚により投獄され、後に機体の設計者にちなんでアルハーンゲリスキイ Ar-2と再命名された)はMMNと類似していたが、こちらはダイブブレーキを装備していた。試験は好結果を収め、Ar-2は生産に移るよう命じられた。SBはもはや航空機技術の最先端ではなかったが、当時2年間でほぼ4,000機の増強を遂げたナチスドイツの脅威の高まりに対抗するため、ソ連は空軍力を増強しようと試み、1939年と1940年を通じて増産が続けられた。SBの生産は1941年初頭から段階的に廃止され、ペトリャコーフ Pe-2に置き換えられていった。モスクワからカザンへ疎開した第22工場では計5,695機が作られ、同時にイルクーツクの第125工場では 1,136機以上が作られた。3機のプロトタイプがツポレフ設計局で作られ、同時にチェコスロバキアのアエロ・ボドチョディ()とアヴィア()でそれぞれ45機と66機が作られており、総計では6,945機が製造された。SBは全金属(アルミ)製の単葉機で、2基のクリーモフM-100 12気筒水冷エンジン(イスパノ・スイザ12-Ydrsエンジンのライセンス生産版)を搭載し、固定ピッチの金属製2枚プロペラを駆動した。エンジンは、垂直のサーモスタット制御の冷却シャッターに囲まれたハニカム型フロントラジエーターのエンジンが装備された。初期の生産段階におけるM-100エンジンは後に代替された。それは高度においての速度を発揮する、着陸調整可能な3ピッチプロペラで駆動する改良型M-100Aである。1936年7月1日までに、わずか54機のSBしかソビエト空軍へ届けられなかった一方で、1936年7月17日のスペイン内戦勃発時に、スペイン共和国派を支援するためにソ連から送られた軍事装備の最初の積荷の中には、新しいツポレフ爆撃機があった。ソ連はこの機材の輸送を取り止めなかった。ソ連貨物船「コムソモール」に乗せられた31機のSBからなる第一群は、1936年10月にカルタヘナへ到着した。その初飛行任務は、10月28日にセビリアの飛行場に対して4機のSBで爆撃を加えることであった。当初、SBは主にソビエト指揮下のソ連人義勇兵が搭乗し、スペイン共和国空軍の"Groupo"12へ配備されていった。SBは反乱軍のフィアット CR.32やハインケルHe51複葉戦闘機をしのぐ速度を有しており、このため迎撃することが困難で、敵戦闘機にとっては高高度からの急降下がSBを迎撃する唯一の手段であった。1937年5月29日、2機のSBがドイツ軍艦「ドイッチュラント」を反乱軍巡洋艦「カナリアス」と誤認して攻撃し、ドイツ水兵31人が死亡、83人以上が負傷した。 6月から7月に31機のSBによる第二群が送り届けられ、"Groupo"12の戦力回復のための分配と、新部隊 "Groupo" 24が創設された。 より高速なメッサーシュミット Bf109がドイツのコンドル軍団再装備のため配備されたことは、SBがこれ以上反乱軍の戦闘機からスピードで逃れられないことを意味し、損害は増加した。1938年6月、第三群そして最後となる31機のSBが到着し 、損害が大きくなり続けたにもかかわらず作戦の続行が認められた。1939年3月の内戦終結までに73機のSBが失われ、その内の40機が敵攻撃によるものであった。19機のSBが反乱軍側に鹵獲され、爆撃機隊が編成されていた。何機かが補修整備でフランス製のイスパノ・スイザ 12Ybrsエンジンを再搭載したが、それは常に予備部品の不足に運用を左右されており、1943年4月の時点で飛行可能なものは3機だけであった。1943年12月にユンカース Ju 88が受領されてからというもの、残存するSBは、1948年に退役して解体されるまで予備訓練飛行に使用された。1937年7月、日中戦争(支那事変)が勃発した。1937年8月21日、ソビエト連邦は中ソ不可侵条約を締結、この協定の一環として、ソビエト義勇兵による搭乗という名目での、完全な航空部隊の動員はもちろんのこと、膨大な軍事物資を中国国民党へ供給した。64機のSBの最初の引渡しは1937年9月、10月に行われ、ソビエト義勇隊による軍事作戦は、12月の揚子江上の日本船舶に対する攻撃から開始された。1938年2月23日、祖国防衛の日を祝すため、ソビエトのSB隊は台湾の日本軍飛行場への長距離爆撃を遂行し、地上の日本軍機40機を破壊したと声明している。60機以上のSBが1938年初頭までに中国へ届けられ、武漢の戦いで日本軍への攻撃に重用された。坂井三郎の著書大空のサムライには、基地がSBによる空襲を受けた体験が記されている。戦闘を経るうちにSBが受けた損害は甚大で、中国空軍のSB部隊は一時的に戦闘から退くことを強いられた。中国上空でSBに乗るソビエト義勇隊は、1939年にイリューシン DB-3に機種転換し、彼らのSBは中国軍部隊に移転されたが、中国軍のそれら増強機材の使用は限定的なものであった。1941年にソ連は100機以上のSBを供給したが、その直前には日ソ中立条約を締結していた。1942年から中国の部隊にはより近代的なアメリカ製爆撃機が譲渡され、SBは対日作戦の前線から次第に引き上げられていき、一部はロッキード ハドソンやB-25 ミッチェルに置き換えられた。同年9月29日には、宜昌飛行場を空襲した6機のSB-bisの内1機が不時着して航空将校が投降。日本軍に鹵獲されたSB-bisは、福生飛行場でテストされた 。1945年の国共内戦再燃から対共産軍に使用される以前には、少数のSBがアヘン農場に対する作戦を含めた非戦闘に使用されるにとどまり、1946年を最後に退役した。中国上空での義勇部隊による対日航空作戦だけでなく、SBは1938年7〜8月のソ連・満州国国境における張鼓峰事件でも日本軍との戦闘に使用され、1機のSBが失われた。1939年5月、モンゴル東部ハルハ河で日ソ両軍間の戦闘が勃発した(ノモンハン事件)。SBは5月の空戦には参加しなかったが、この時点でソビエト軍航空部隊は大きな損害を被ったため、SBの2個飛行連隊が6月にモンゴルへ動員され、6月26日に最初の飛行任務をおこなった。SBは7月初旬の日本軍の攻勢に対して重用された。ソ連軍のSB連隊は初期型と後期型SBの混成で、機材の速度の違いは編隊の維持に支障をきたし、 一方で日本軍の九七式戦闘機隊はSBの脆弱な防御(無線手が背部と下部の両機銃を操作していた)を食い荒らすという熟練度を示した。日本の戦闘機に対する損失を最小限に抑えるべくソ連軍は戦術を変更し、SBは日本軍が迎撃困難な高度6,100 m (20,000 ft)以上で飛行任務を行った。SBは、ゲオルギー・ジューコフ指揮下のソ連・モンゴル軍が1939年9月の停戦協定締結までの攻勢を成功させた時にも、日本軍に対して使用され続けた。1939年11月、ソ連はフィンランドに対し、数百機のSBを含む兵力を動員して攻撃を加え、冬戦争として知られる戦いに入った。損害は甚大で、爆撃機編隊は度々護衛を受けず、低レベルの作戦を強制され、フィンランド軍の対空火器や戦闘機から攻撃を受けやすかった。1936年のスペインでは、SBは敵戦闘機を凌ぐことができたが、この時には脆く貧弱な機材に過ぎなかった。SBは雪で覆われた飛行場からの作戦のためにスキーを取り付けられ、機体の速度は低下して更に攻撃されやすくなり、一方で防寒服を着る必要上、機銃手の仕事は一層制限されて厳しくなった。15週間の戦争の終わりまでに、少なくとも100機のSBが失われ、フィンランド側は200機近くの撃墜(うち92機はフィンランド軍戦闘機による)を主張している。1941年6月、ドイツのソ連侵攻時、Pe-2のようにより近代的な航空機の再装備が始まっていたとはいえ、ソ連の作戦可能な爆撃機戦力の94%はSBを装備しており、1,500機から2,000機のSBがソ連西部の境界地区に展開していた。ドイツ空軍はバルバロッサ作戦を発動、ソ連の主要な66の飛行場に対して相互連携攻撃をかけ (その一方的な戦いは、あるドイツ空軍将官から「幼児殺し」と呼ばれた)、侵攻初日にソ連軍の航空戦力の大半を地上あるいは空中で破壊した。初日の大虐殺を切り抜けたSBは稚拙に使用され続け、多くがドイツ戦車に対する護衛無しの攻撃で浪費された。SBの比較的大型で防弾能力に欠けた作りはドイツ軍の小型対空砲に弱く、一方でドイツ戦闘機隊は大きな戦果を上げつづけた。SBは主に夜間に使用され続け、レニングラード防衛戦とモスクワの戦いではドイツ軍砲兵を攻撃した。また、1941年12月までに、SBのほとんどが代替されるか失われたが、北方のフィンランドに対しては1942年3月まで依然として大規模に使用された。SBは補給物資の投下やグライダー曳行、訓練というような非戦闘任務に使用され続け、極東では1945年まで残されていた。冬戦争では多数のソ連軍SBがフィンランド領土に墜落または不時着陸し、その多くをフィンランド軍はできる限り回収した。とくに状態の良いものはフィンランド空軍が使用するため国立航空機工場(VL;)へ送られて修理された。ソ連との継続戦争(フィンランドが冬戦争で喪失した領土回復のため動いた)時までに、5機のSBが修理されており(後に3機以上が追加)、第6戦隊 ()に配備使用され、対潜哨戒任務で飛行した。これらの航空機は、ドイツから16機以上のSB(ドイツがソ連侵攻初期の数週間で鹵獲)を購入したことにより補充された。継続戦争の間にフィンランドは7機のSBを事故で喪失したが、戦闘による損失は無く、フィンランドのSBは3隻のソ連潜水艦と4,000トンの商船1隻を撃沈したと主張している。1950年代のスターリンによる戦後一掃の結果、大祖国戦争を切り抜けた多くのANT-40が解体された。しかしながら1970年代後半、"Vozdushni Transport"(ソビエトの航空新聞)は、1939年にバイカル地方のYuzhne Muiski山脈近くで、吹雪の中を強行着陸したANT-40を調査するため、エフゲニー・コノプレフ率いる調査隊を派遣した。コノプレフはかなりきちんとした状態のANT-40を発見したことに励まされ、今度は機体を持ち帰るため空軍パイロットのチームを連れて行くことを考えた。ANT-40はモスクワへ戻されてツポレフ社員の有志によって修復された。修復された機体は1982年4月にモニノ空軍博物館で除幕式が行われ、7,000機弱作られたうちの、唯一現存するANT-40として知られる。

出典:wikipedia

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