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ジョン・ディーフェンベーカー

ジョン・ジョージ・ディーフェンベーカー(John George Diefenbaker、1895年9月18日 - 1979年8月16日)は、カナダの第13代首相である(在任:1957年6月21日 - 1963年4月22日)。オンタリオ州ニュースタット(Neustadt)生まれ。ドイツ系。1910年に教師であった父親が既に赴任していたサスカチュワン州(当時はノースウェスト準州)サスカトゥーンへ移住、サスカトゥーン大学を卒業する。1940年にカナダ下院議員にサスカチュワン保守党から初当選する。保守党は1942年よりカナダ進歩保守党となり創設時から所属する。1956年には進歩保守党の党首となり、その後11年間党首を務める。1957年に総選挙で初勝利し、首相の座に就く。カナダ初の女性閣僚を任命し、またカナダ初の先住民出身の上院議員を任命した。6年間の首相としての任期中、カナダ権利章典を採択し、イヌイットやファースト・ネーション(先住民)の市民に選挙権を与えた。外交では、南アフリカのアパルトヘイト政策に反対しイギリス連邦からの脱退を促したが、アメリカ合衆国からボマーク・ミサイルを導入すべきかどうかの議論で立場を明確にせず、結果的に退陣に追い込まれた。結果的にディーフェンベーカーはアブロ・アロー計画中断の立役者として記憶されることとなった。1999年にサスカトゥーンの空港が彼にちなんでサスカトゥーン・ジョン・G・ディーフェンベーカー国際空港と改名した。ディーフェンベーカー首相在任中、ケネディ政権のアメリカ合衆国との外交関係が停滞した。1961年2月、ディーフェンベーカー首相のワシントンD.C.訪問時の記者会見で、ケネディ大統領は首相の名前を呼び間違うなどカナダ軽視の姿勢が見られたが、ディーフェンベーカー首相はケネディー大統領にオタワ訪問を要請した。しかしケネディ大統領はオタワ空港で再び首相の名前を間違い、すでに首相が反対表明したカナダでの核兵器配備やカナダの米州機構加盟について国会演説で迫り、また首相を批判した内容の手書きメモを会談後に誤って残すなどし、公式晩餐会ではディーフェンベーカー首相より野党のピアソンと会話をした。1962年のキューバ危機の際もケネディはディーフェンベーカーに直接事前連絡することなく、単にテレビ演説2時間前に元大使を派遣し通告しただけだったため、ディーフェンベーカーは立腹し、アメリカとキューバに中立な国として介入という姿勢を公表した。アメリカ政府はこれを、アメリカに対する支援拒否でありケネディに対する不信表明と受け取った。アメリカ政府がデフコン3に移行しても、ディーフェンベーカーはカナダ軍に対し同レベルの準備体制への移行指令を速やかに発令せず、結局この件ではカナダ国民やメディアからもディーフェンベーカーは批判されることになった。結果的に、NATO軍の一部としてカナダでの核ミサイル配備受け入れ拒否の面で内閣内部での意見対立に発展し、野党からの批判の的にもなった。このときアメリカ政府が「ディーフェンベーカーが国会演説で過ちを犯した」旨の公式発表を行い、カナダは抗議として史上初めてアメリカに対する大使召還を行った。ディーフェンベーカーは「カナダはアメリカ政府に屈するべきか」を国民に問うべきとし、内閣を解散し総選挙を告示した。ケネディ政権は公式的には中立を維持したが、実際にはピアソンの野党自由党を支援し、内閣内でも半数の閣僚しかディーフェンベーカーを支持せず、結果として自由党に敗北し退陣することとなった。

出典:wikipedia

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