樋脇町市比野(ひわきちょういちひの Hiwaki-Chō Ichihino)は、鹿児島県薩摩川内市の大字。旧薩摩郡樋脇郷市比野村、薩摩郡樋脇村大字市比野、薩摩郡樋脇町市比野。郵便番号は895-1203。人口は3,844人、世帯数は1,085世帯(2011年3月1日現在)。薩摩川内市のほぼ中央部、市比野上流域に位置しており、旧樋脇町の南部の多くを占めている。字域の北方には薩摩川内市樋脇町塔之原、南方には日置市東市来町養母、鹿児島市郡山岳町、東方には薩摩川内市入来町浦之名、西方には薩摩川内市永利町、薩摩川内市百次町、いちき串木野市冠嶽がそれぞれ隣接している。字域の北部には宝永年間に島津光久が来遊したときに初めて温泉浴場を開いたとされている市比野温泉があり、現在でも公営の公衆浴場や旅館などが多く所在している。教育施設は中北部に薩摩川内市立市比野小学校、西部には薩摩川内市立野下小学校(2011年3月閉校)跡、南部には薩摩川内市立藤本小学校(2013年3月閉校)跡が所在している。字域の中央を鹿児島県道36号川内郡山線は鹿児島市方面から南北に通り途中で進路を西方に換え薩摩川内市街方面に向かい、鹿児島県道39号串木野樋脇線はいちき串木野市街方面から字域の中央を南北に通り、北部で鹿児島県道42号と接続し終点となっている。北部には鹿児島県道42号川内加治木線が通り鹿児島空港と薩摩川内市街を結んでおり、字域の北部に道の駅樋脇が所在している。市比野という地名は平安期より見え、薩摩国入来院のうちであった。市比野浦、市比野名、市比野村とも称されていた。長寛2年には新田八幡宮領として「市比野浦」が見える。宝治元年頃から渋谷氏が支配を置こうとしていたが、鎌倉期までは渋谷氏は当地を完全に支配していたわけではなく、相伝の所職であったとされている。鎌倉末期頃は公的には新田八幡宮領となっていた。その後応永2年から4年にかけて、薩摩守護である島津伊久と大隅守護である島津元久の軍は渋谷氏を攻め市比野城を攻め落としたのちに一時的に国分氏・執印氏の一族で、惟宗師久の子孫といわれる旧市比野名主を当地に復させるがその後入来院全域が渋谷氏の所領となり、永禄12年に入来院氏が島津氏の軍門に降りるまで続いた。江戸期には薩摩国薩摩郡樋脇郷(外城)のうちであり、村高は「天保郷帳」では2,769石余、「旧高旧領」では2,560石余であった。1889年(明治22年)に町村制が施行されたのに伴い、樋脇郷の区域より樋脇村が成立し、江戸期の市比野村の区域は樋脇村の大字「市比野」となった。1940年(昭和15年)には樋脇村が町制施行し樋脇町の大字となった。2004年(平成16年)には樋脇町が川内市、東郷町、入来町、祁答院町、里村、上甑村、下甑村、鹿島村と共に新設合併し薩摩川内市が成立し、従来の大字名に旧自治体名を冠することになり、薩摩川内市の大字「樋脇町市比野」となった。市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる。
出典:wikipedia
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