ロバート・アラン・ディッキー(Robert Alan Dickey、1974年10月29日 - )は、アメリカ合衆国・テネシー州ナッシュビル出身のプロ野球選手(投手)。現在は、MLBのトロント・ブルージェイズに所属している。2012年にサイ・ヤング賞、最多奪三振を記録しオールスター出場を果たした。希少なナックルボーラーとして知られる。、MLBドラフト10巡目(全体277位)でデトロイト・タイガースから指名されるもテネシー大学に進学。にMLBドラフトでテキサス・レンジャーズから1巡目(全体18位)で指名を受け、当初81万ドルの契約金を提示されていたが、直後のメディカルチェックで右肘にあるはずの靱帯のうち1つ(内側側副靱帯)を生まれつき持っていないことが判明し、契約金が7.5万ドルに引き下げられた。同年7月にはアトランタオリンピックの野球アメリカ合衆国代表メンバーとして銅メダルを獲得。にメジャーデビューを飾り、には9勝8敗で防御率5.09、には6勝7敗で防御率5.61という成績を残した。それまではフォークボールを決め球としていたが、メジャーで生き残るためにはナックルボールを習得するしかないと判断し、からチャーリー・ハフの指導を受けてナックルボールを習得していった。には先発登板するも3回を投げて6本塁打を喫するなど散々な内容となり、8月23日にDFAとなった。8月26日にAAA級オクラホマシティ・レッドホークスへ降格した。オフの10月11日にFAとなった。1月13日にミルウォーキー・ブルワーズとマイナー契約を結んだ。この年はAAA級ナッシュビル・サウンズでプレーし、12勝6敗、防御率3.80を記録した。オフの10月29日にFAとなった。2007年11月28日にミネソタ・ツインズとマイナー契約を結んだが、12月に行われたルール・ファイブ・ドラフトでシアトル・マリナーズから指名を受け移籍した。3月29日にロースターから外れたため、ルール・ファイブ・ドラフトの規約でツインズに復帰したが、同日にハイアー・フェルナンデスとのトレードでマリナーズに復帰した。この年は5勝8敗で防御率5.21という成績を残した。オフの12月9日にFAとなった。2008年12月26日にツインズとマイナー契約を結んだ。はメジャーで35試合に登板した。オフの10月6日にFAとなった。1月5日にニューヨーク・メッツとマイナー契約を結び、AAA級バッファロー・バイソンズでシーズンをスタートさせた。5月19日にメジャー昇格し、翌日のワシントン・ナショナルズ戦で先発登板し6回を投げて2失点で勝敗はつかなかった。次の登板となったフィラデルフィア・フィリーズ戦では6回を無失点と好投し勝利投手となった。8月13日、フィリーズ戦では1安打を許しノーヒットノーランを逃したが、コール・ハメルズとの投げ合いを制した。唯一打たれた安打もハメルズからであった。1月31日にメッツと総額780万ドルの2年契約(2013年・500万ドルの球団オプション付き)を結んだ。は、開幕から好調で勝ち星を積み重ね、同年のオールスターで球宴初出場を決めた。成績ではディッキーがオールスターの先発投手に相応しかったが、先発捕手のバスター・ポージーがナックルボールを受けるのが困難という理由で先発から外れた。当日はリリーフとして登場し、カルロス・ルイーズを相手に1イニングを投げた。最終的にリーグ2位の20勝、防御率2.73、リーグトップの奪三振230を記録し、11月14日にナックルボーラーとして史上初のサイ・ヤング賞を受賞した。10月31日にメッツが500万ドルの球団オプションを行使した。2012年12月17日にトラビス・ダーノー、ジョン・バック、ノア・シンダーガード、ウィルマー・ベセラとのトレードで、ジョシュ・トーリー、マイク・ニッカースの捕手2名と共にトロント・ブルージェイズへ移籍した。同日に総額3000万ドルの3年契約(2016年・1200万ドルの球団オプション付き)を結んだ。サイ・ヤング賞投手が受賞年のオフにトレードで放出されたのは1994年のデビッド・コーン、1997年のペドロ・マルティネス、1998年のロジャー・クレメンスに次いで史上4人目である。開幕前の2月27日に、第3回WBCのアメリカ合衆国代表に選出された事が発表され、代表入りしている。シーズンでは、前年から防御率を大幅に悪化させ(2.73→4.21)、14勝13敗で僅かに勝ち越し1だった。ほか、投球イニングが減ったにもかかわらず、被安打・被本塁打・失点・自責点等の良くない部門の成績を悪化させた。6月27日の対シカゴ・ホワイトソックス戦で通算1000奪三振に到達。シーズン通算では3年連続の2ケタ勝利となる14勝をマーク。一方で敗戦も前年と同じ13敗だった。しかし被安打・被本塁打を減らし、防御率を改善した。は、チームでトップ且つ唯一となる200.0イニング以上 (214.1イニング) に投げ、勝敗こそ五分五分だったものの、2年連続で防御率を4.00未満に留めた。また、この年に最後に挙げた勝ち星である11勝目は、自身通算100勝目の勝利だった。、5年連続2ケタ勝利となる10勝を挙げたが、全体としては負けが込んでリーグ・ワースト2位の15敗を喫した。また実際、防御率とWHIPはブルージェイズ移籍後では自己ワーストの数値で、投球内容自体もやや悪化した。投球の約85%がナックルボールであり、平均的なナックルボーラーより速い120~130km/hの球速を有している。キャリアハイの2012年は230奪三振をマークする一方で四死球は54個と少なく、制球が難しいナックルを巧みにコントロールしていた。カウントを整えたい時や打者のタイミングを狂わすために平均84マイル(約135km/h)程度のツーシームも投げる。ディッキーの登板時には、捕手は大型のソフトボール用ミットを着用する。8歳の夏に13歳の女のベビーシッターと17歳の男から性的虐待を受けていたことを2012年に出版された自伝「Wherever I Wind Up」の中でカミングアウトした。インドにおける性的人身売買の被害者を支援する活動に取り組んでおり、2011年シーズン終了後には慈善活動のPRのためキリマンジャロ山に登頂した。2012年には優れた社会貢献を行った選手に贈られるを受賞した。 2013年1月にはムンバイを訪れ、慈善活動を行った。
出典:wikipedia
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