ポティート・スタラーチェ(Potito Starace, 1981年7月14日 - )は、イタリア・カンパニア州アヴェッリーノ県チェルヴィナーラ出身の男子プロテニス選手。ATPランキング自己最高位はシングルス27位、ダブルス40位。これまでにATPツアーでダブルス6勝を挙げているが、シングルスは優勝がない(準優勝4度)。身長188cm、体重84kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。単複計12度のツアー決勝進出の内、ハードサーフェスのダブルス2回を除く9回がクレーサーフェスという、特にクレーサーフェスを得意とする選手である。イタリア政府で働く父と、教師の母との間に3人兄弟の長男として生まれたスタラーチェは8歳の頃からテニスを始める。この頃から現在のコーチであるウンベルト・リアナに師事し、同じくリアナをコーチとしていたダニエレ・ブラッチアリと共に、彼の下で本格的にテニスを学ぶ。スタラーチェはジュニア時代からITFジュニアサーキットには殆ど出場せず、早くからシニアレベルのサーキット大会を転戦していた。2001年にプロ転向。プロ転向後数年は下部ツアーを転戦していたスタラーチェであったが、2004年に最初の転機が訪れる。6月の全仏オープンシングルスで初めてグランドスラム大会へ出場を果たすと、2回戦で当時世界ランク10位、第10シードのセバスチャン・グロジャンを 7-6, 6-3, 6-4 のストレートで下す番狂わせを起こす活躍で3回戦に進出。3回戦ではマラト・サフィンに 7-6, 4-6, 6-3, 5-7, 5-7 のフルセットの激戦の末惜敗したが、自身初のトップ10選手撃破を果たす。更に7月のアリアンツ・スイスオープン・グシュタードでも予選を勝ち上がり、1回戦で第7シードのダビド・サンチェス(スペイン)を、準々決勝で第4シードのイリ・ノバクをそれぞれ下す活躍で、第1シード、当時世界ランク1位のロジャー・フェデラーとの準決勝まで進出。これらの活躍により翌週のデビスカップヨーロッパ/アフリカゾーン グループ II準決勝、対ブルガリア代表戦でイタリア代表に初選出される。またツアー下部のチャレンジャー大会でも3大会で優勝する好成績を残し、シングルス年度末ランクを76位で終了。自身初の年間トップ100フィニッシュを果たし、以降ツアーレベルに定着するようになる。この年は5月のローマ・マスターズで予選を勝ち上がり、1回戦で第7シード、当時世界ランク8位のカルロス・モヤを 6-4, 7-6 のストレートで下しアルベルト・マーティン(スペイン)との2回戦まで進出すると、ノーシードで出場した8月のオレンジ・プロコム・オープンでも、2回戦で第4シードのカルロス・モヤを、3回戦で第6シードのホセ・アカスソを破り、ガエル・モンフィスとの準決勝まで進出。この年は他にも1月のハイネケン・オープンと7月のアリアンツ・スイス・オープンでもそれぞれノーシードからシングルスベスト8に進出する好成績を残した。この年は特にダブルスで好成績を挙げ、フィリッポ・ボランドリ(イタリア)と組んでノーシードで出場した2月のアビエルト・メキシコ・テルセルで勝ち上がり、決勝に進出。決勝では第1シードのチェコ人ペアフランティシェク・チェルマク&レオシュ・フリエドル組に5-7,2-6のストレートで敗れ準優勝となったが、自身初のツアー決勝進出を果たす。更にアルベルト・マーティンと組んでノーシードで出場した6月の全仏オープンでも、2回戦で第6シードのシーモン・アスペリン&トッド・ペリー組を6-4,6-4のストレートで破る活躍で第2シードのヨナス・ビョークマン&マックス・ミルヌイ組との準々決勝まで進出した。一方シングルスでは前年ほどの好成績は挙げられなかったが、2月のテルメクス杯、5月のハイポグループ・テニス・インターナショナル、10月のサンクトペテルブルク・オープンでそれぞれベスト8に進出。これらの活躍により年度末ランクでは単複共にトップ100フィニッシュを果たした。この年はノーシードで出場した4月のバレンシア・オープンで自身初のツアーシングルス決勝進出を果たし準優勝すると、7月のオーストリアン・オープンでも決勝に進出し準優勝。他にもツアーで5度ベスト8に進出し、ツアー下部のチャレンジャー大会でも2優勝を挙げる活躍で、10月15日付のATPランキングで自己最高位の27位を記録。年度末ランクでも31位で終了し、初めてイタリア人選手のトップに立つ等、スタラーチェのシングルスキャリアにおいて最高の年となった。一方ダブルスではマルティン・バッサロ=アルグエロ(アルゼンチン)と組んで出場した2月のアビエルト・メキシコ・テルセルで2年連続の決勝進出を果たすと、決勝では第1シードのルーカス・ドロウヒー&パベル・ビズネル組を 6-0, 6-2 のストレートで破り、ツアー初優勝を果たす。更にルイス・オルナと組んで出場した7月のオーストリアン・オープンでも、準決勝で第1シードのシーモン・アスペリン&ユリアン・ノール組を破り決勝に進出。決勝ではドイツペアのトーマス・ベルンド&クリストファー・キャス組を 7-6, 7-6 のストレートで下し、ダブルス2勝目を挙げた。この年は後述する賭博スキャンダルにより、シーズン開始から6週間の出場停止の罰則を受けたため、全豪オープンへの参加が不可能になる等、思わぬ出遅れに見舞われる事態となった。シングルスではツアーで4度のベスト8進出があったものの、前年ほどの好成績は残せず、年度末ランクも72位で終えるなど大きく下降した。一方ダブルスではセルジー・スタホフスキー(ウクライナ)と組んで出場した10月のクレムリン・カップで勝ち上がり優勝。他にも2月のアビエルト・メキシコ・テルセルでも準決勝に進出するなど、前年に引き続き好成績を収めた。この年のシングルスは5月のBMWオープンでのベスト8進出の他は、前年以上にツアーで好成績が残せず、5月には一時トップ100から転落する不振にあったが、その後出場したチャレンジャー大会で1優勝3準優勝の好成績を挙げ、年度末ランクでは62位まで戻してトップ100に踏みとどまった。ダブルスも前年程の活躍は無かったが、アグスティン・カレリと組んで出場した2月のテルメクス杯で準決勝進出が1度あった。シングルスではクロアチア・ウマグ大会で、ツアーシングルス3度目となる決勝に進出したが、フアン・カルロス・フェレーロに、4–6, 4–6 で敗れた。ダブルスでは、2月のサンティアゴとアカプルコで準優勝、10月のサンクトペテルブルク大会でダニエレ・ブラッチアリと組み、ロハン・ボパンナ&アイサム=ウル=ハク・クレシ組を 7–6(6), 7–6(5) で破りダブルス4勝目を挙げた。4月のハサン2世グランプリでツアーシングルス4度目となる決勝に進出したが、パブロ・アンドゥハルに、1–6, 2–6 で敗れた。ダブルスではダニエレ・ブラッチアリと組み、全仏オープンで5年ぶりのベスト8に進出。9月のブカレスト大会では決勝でユリアン・ノール&ダビド・マレーロ組を 3–6, 6–4, [10–8] で破りダブルスツアー5勝目を挙げた。1月の全豪オープンでは1回戦で伊藤竜馬に 3-6, 6-4, 3-6, 4-6 で敗れた。全仏オープンではシングルスでは1回戦で第1シードのノバク・ジョコビッチに 6-7(3), 3-6, 1-6 で敗れたが、ダニエレ・ブラッチアリと組んだダブルスではベスト4に進出している。2007年12月、スタラーチェとダニエレ・ブラッチアリの2名のイタリア人選手が、ATPが禁止しているテニス賭博行為を行ったとして処分を受けた。2人の所属するイタリアテニス協会の発表によると、スタラーチェは2年前の2005年に5回に渡って計90ユーロ、ブラッチアリは1口5ユーロの賭けに50回参加したとの罪状で、スタラーチェには3万ドルの罰金と翌2008年シーズン開始から6週間の出場停止、ブラッチアリには2万ドルの罰金と翌シーズン開始から3ヶ月の出場停止が下された。ブラッチアリは賭けを行った事自体は否定しなかったが、「僕らはチャンピオンではないし、上層部にはそれほど重要ではないのさ。でも、我々イタリア人だけが賭けに関わった選手ではないと思っているよ。ATPの『テニス賭博は必要ではない』という規定にはさまざまな解釈の仕方がある。それに、もし僕がもっと卑怯なことをしようと思ったら、自分の名前には賭けないよ。」と自分達は身代わりにされたのだとコメントした。イタリアでは前月の11月にもアレッシオ・ディマウロが同様の賭博行為で9ヶ月間の出場停止処分を受けており、イタリアのトップ選手が相次いで処分される事態となったが、こうした事態に対しイタリア協会側は「ディマウロの件もそうだが、2人に対する処分が重すぎる。2人が自分たちの試合に賭けていないことは明らかだ」との声明を発表し、3人が身代わりにされたとして処分に異議を唱えるなど波紋を広げた。その後スタラーチェは処分後もシングルストップ100に留まるなどキャリアに大きな影響はなかったが、ブラッチアリはその後ダブルスに注力、一番処分の重かったディマウロは完全にツアーレベルから陥落するなど選手のキャリアにも影響を与える事件となった。
出典:wikipedia
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