八多町(はたちょう)は、徳島県徳島市の町名。多家良地区に属している。郵便番号は〒771-4266。徳島市の南部。北は上八万町・渋野町、東は多家良町、西は名東郡佐那河内村、南は勝浦郡勝浦町と接する。山林が多く、八多川に沿ったわずかな平地・斜面を利用した農業地域。山地斜面でのミカン栽培は、古くから盛んで多くの生産をあげているが、生産過剰と外国からの安価な果物輸入のため、価格が低下し、ミカン農家を悩ませている。その他、イチゴ・シイタケの促成栽培、花卉の栽培を行い、米作は平地部で行われている。平地部には宮井小学校八多分校・八多保育所・公民館等の公共施設がある。寺社が多く、特に五王神社境内には、国の重要有形民俗文化財に指定されている犬飼農村舞台があり、毎年5月と11月に人形浄瑠璃が上演されている。人形芝居を演じる農村舞台は、県下でも200余が残存し、舟底楽屋などは民族的価値が高く、現在でも使用されていることから有名。鹿首の谷には東山湲県立自然公園内の一大景勝地として八多五滝があり、雌鴨・雄鴨・御来迎・布引・蔵王の5滝が標高をずらしながら10mを越す高さから落下している。また、犬飼では胴掛け式水車が現在も使用され、ハイキングなどで訪れるひとも増えている。 江戸時代から明治22年までは徳島藩領・勝浦郡八多村が存在した。寛保神社帳によれば、神社は八幡宮2と五王権現が見え、その別当に金竜寺・長楽寺が見える(続徴古雑抄1)。農作物は米麦を中心にミカン・柿・梅・ビワなども栽培された。また地内の過半を山間部が占めることから、薪・炭も大量に生産された。副業に養蚕も行われていた。明治6年の養蚕戸数は23戸で、生糸842匁を製造したという(平岡治之助伝)。万延年間前後に友兼庄之助が、元治年間から明治初年にかけて長田喜三太が寺子屋を開いており、寺子100名内外を教えた(勝浦郡志)。人形芝居を演じる農村舞台が五王神社(旧五王権現)慶大にある。現在の建物に明治6年の権礼が残ることから、江戸期に建てられたと考えられる。これが犬飼農村舞台で、現在も演じられている。また犬飼には藩主お狩場があり、その休息には大久保家を使用した。明治4年に徳島県、同年に名東県、明治9年に高知県を経て、明治13年に再び徳島県に所属。同年に金竜寺に八多小学校が創立。明治19年に宮井小学校に合併された。明治22年に多家良村の大字となる。明治22年から昭和27年の大字名。米麦中心の農作経営が多いが、明治末期から大正期・昭和初期を通してミカン栽培が行われた。昭和16年の戦時作付制限令による麦・イモ畑への転換があったが、戦後再びミカンは増産された。木炭・ビワ・柿・梅・芋なども生産した。大正6年の生産物調査で8,000棚・ミカン7万貫(八多の今昔)。明治42年に宮井尋常小学校八多分教場(現宮井小学校八多分校)が設置された。同年と大正6年に銅鐸が出土。大正15年には電灯がともる。昭和13年に電話が架設され、昭和24年に八多公民館が設置された。昭和27年に現在の徳島市八多町となる。昭和27年より現在の町名となる。ミカン栽培が盛んで、特に昭和20年代には生産がのびたが、昭和30年代後半頃から、生産過剰などのため価格が低下した。椎茸の人工栽培の普及による椎茸栽培やイチゴなどのハウス栽培、キク・ユリなどの花卉栽培、平地での米作など農業経営の多角化がはかられている。五王神社の秋祭りに人形浄瑠璃芝居を奉納していたが、昭和34年・35年頃から後継者不足のため休止状態となった。昭和51年に阿波の人形芝居が国の選択無形文化財に選ばれて以降、毎年上演されるようになり、昭和55年には県民俗文化財に指定され、犬飼農村舞台として有名になった。昭和39年に八多五滝が中津峰山などと共に東山湲県立自然公園に指定された。市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。
出典:wikipedia
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