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徳川治済

徳川 治済(とくがわ はるさだ / はるなり)は、江戸時代の御三卿の一つ一橋徳川家の第2代当主。8代将軍・徳川吉宗の孫で、11代将軍・徳川家斉の実父に当たる。一橋徳川家初代当主・宗尹の四男として生まれたが、兄の松平重昌と松平重富が越前福井藩を継いだため、宝暦8年(1758年)に嫡子(一橋家の継嗣・次代当主)となる。宝暦12年(1762年)に元服、従兄弟で10代将軍の徳川家治より偏諱を受け治済と名乗る。明和元年(1764年)、父・宗尹の死により一橋家を継承する。弟の治之は福岡藩主黒田継高の婿継嗣となった。田沼意次が幕政を指揮する中、一橋家には意次の弟意誠や甥意致が家老となり、一橋家家臣とも縁戚関係を築いていた。しかし治斉は松平定信ら反田沼派の黒幕として運動し、天明6年(1786年)、将軍・徳川家治が亡くなり長男の豊千代改め家斉が11代目の将軍職に就任すると、意次の罷免、田沼派の一掃を行わせた。天明8年(1788年)に家斉は治済を大御所待遇にしようと幕閣に持ちかけるが、当時朝廷で光格天皇が実父・閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとして老中の定信と対立する尊号一件が起こる。その結果、治済の「大御所」待遇もできなくなり、治済・家斉父子の怒りを買った定信は失脚することとなった。文政元年(1818年)に剃髪して「穆翁」と号す。漢学者・五弓久文の『文恭公実録』によると、当時その豪奢な生活ぶりから、「天下の楽に先んじて楽しむ」三翁の一人に数えることわざが作られたという(残り二人は中野清茂、島津重豪。一方、「天下の憂に先んじて憂う」という正反対の人物として松平定信が挙げられている)。のち従一位准大臣まで昇進し、将軍実父として権勢を誇り、亡くなるまで幕政に隠然たる影響力を持った。文政10年(1827年)、77歳で死去し、跡を六男・斉敦が継いだ。※日付=旧暦

出典:wikipedia

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