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さくら野百貨店

さくら野百貨店(さくらのひゃっかてん、)は、東北地方に展開している日本の百貨店である。この店名となった当時は同名の企業が全店舗を運営していたが、企業分割や社名変更を経て、現在は(3代目にあたる)株式会社さくら野百貨店(. 本社:青森県青森市)が青森店、弘前店、八戸店、北上店の4店舗を運営し、株式会社エマルシェが仙台店を運営している。1978年(昭和53年)3月にニチイの支援を受けて丸光、カネ長武田百貨店、山田百貨店、イチムラ、小美屋と共に株式会社百貨店連合を設立したのが始まりである、また、同月三越と提携して商品供給を受けることになった。同年4月に百貨店連合が設立に参加した百貨店5社と経営管理に関する業務委託契約を締結して業務を受託した。その後、1981年(昭和56年)3月に先行して武田百貨店、やまだ百貨店、イチムラの3社が合併して株式会社武田山田百貨店を発足させ、1982年(昭和57年)3月に丸光(本社仙台市、資本金8億円)と合併して株式会社丸光小美屋を設立し、1982年(昭和57年)3月には丸光と小美屋が合併して株式会社丸光小美屋を設立した。さらに、1982年(昭和57年)9月に株式会社百貨店連合が武田山田百貨店や丸光小美屋と合併して5社が経営していた百貨店の経営を完全に引継いだ。この間の1981年(昭和56年)11月6日には百貨店連合として初の新店舗として厚木市にダックシティ厚木を開業したのを皮切りに百貨店5社から引継いだ店舗以外の出店に踏み切り、1994年(平成6年)3月1日にニチイより営業譲渡を受けて山形ビブレを開業し、1999年(平成11年)3月に北海道小樽市のマイカル小樽に小樽ビブレを開業し、2000年(平成12年)3月に岩手県北上市本通りに北上ビブレを開業するなど出店を進め、1993年(平成5年)10月1日にカネ長武田百貨店から引継いだ旧弘前店を閉店して城東北に弘前ビブレ、1996年(平成8年)3月に丸光から引継いだ旧石巻店を閉店してJR石巻駅前に石巻ビブレ、1998年(平成10年)3月に山田百貨店から引継いだ旧福島店を閉店して福島市曾根田町(現:曽根田町)に福島ビブレを各々開業するなど既存店のスクラップアンドビルドも積極的に進めた。その一方で1996年(平成8年)にダックシティ小美屋、1997年(平成9年)2月にダックシティイチムラ長岡店を閉店して設立に参加した百貨店5社のうち2社の店舗から完全に撤退したほか、1992年(平成4年)2月にダックシティ厚木をニチイに、2001年(平成13年)2月に小樽ビブレを株式会社マイカルに各々譲渡して撤退し、その他にも2000年(平成12年)1月10日に山形ビブレを閉店するなど不採算店の閉鎖も行った。しかし、2001年(平成13年)9月14日に株式の76.4%を直接保有して間接保有と合せて83.4%を保有する親会社のマイカルが民事再生法適用を申請したことに伴い、東京地方裁判所に民事再生法の適用申請をして事実上破綻した。民事再生法の適用申請をした際にはそのまま各店舗の営業を続けたが、破綻直後の2001年(平成13年)10月に集客力が低下して業績が低迷していた気仙沼ビブレの閉店を決定して2002年(平成14年)1月10日に閉店した。なお、ビブレとして営業していた時代にも日本百貨店協会には加盟し続けており、百貨店業態として運営されていた。2002年(平成14年)2月28日に日本政策投資銀行や取引先の企業約10社などの出資で企業再建ファンドを設立して資本金をいったん100%減資後にそこから出資を受ける形で再建を目指す方針を発表し、2002年(平成14年)5月に再生計画案が債権者集会で可決されて裁判所から認可を受け、日本政策投資銀行や不動産会社で青森店などの大家である武田(青森市)など15の地元企業・団体が11億7800万円を出資して事業再生に乗り出した。この増減資を伴った再建策によりマイカルグループから独立した独立資本の百貨店として営業することになったため、一般から公募した新名称から店舗を展開する東北4県には桜の名所が多いことにちなんでさくら野百貨店を選び、同年10月1日にダックビブレからに社名と店名を変更して新たなスタートを切った。しかし、2001年(平成13年)9月以降7店全体の売上高が平均で前年比約75%と落ち込んだ状態からスタートし、2003年(平成15年)3月末に7店全体の売上高の2割以上を占める仙台店は約12億円を投じて全面的に改装して東北初の売場を導入して若い女性客を増やして前年比20%増となったものの再生計画の前年比40%増の半分に留まり、食料品売上が破綻前より25%減に落ち込んだままとなるなど、さくら野百貨店として再スタートしてから1年経った2003年(平成15年)9月時点でも破綻で失われた信用を取り戻せず売上の回復は思うように進まなかった。そのため、2004年(平成16年)1月に高島屋と業務提携して営業部長などの人材派遣を受け、同年11月に高島屋の業務支援を受けて基幹店の仙台店の地下食品売り場を改装してさくら野ごちそう館とするなど攻めの投資を行う一方で、2005年(平成17年)3月21日に民事再生法適用後に離れた顧客を取り戻せないまま業績が低迷していた福島店を閉店して山田百貨店の歴史に終止符を打って福島県での百貨店運営から撤退するなどして再建を進めた。2005年(平成17年)4月に初代さくら野百貨店を仙台店を運営する2代目さくら野百貨店(現エマルシェ)、仙台店の資産管理をするさくら野DEPT仙台、仙台以外の東北の店舗を運営するさくら野東北(現さくら野百貨店=3代目)に3分割して新たなスタートを切り、翌月5月に東京地裁から民事再生手続き終結決定を受けた。2代目さくら野百貨店は2005年(平成17年)4月27日に高島屋の業務支援を受けて仙台店の7階のレストラン街を含む2-7階のフロアに約60の新規ブランドや売場を導入する大改装を行い、2007年(平成19年)5月29日に株主総会で当時28.2億円だった資本金を1億円に大幅に減資して減損会計に伴う損失処理に対応し、さくら野東北は蛇田地区へのイオン石巻ショッピングセンターの進出とそこへのシネマコンプレックスの移転で集客力と売上が減少していた2008年(平成20年)4月27日にさくら野百貨店石巻店を閉店して丸光以来の歴史に終止符を打って現在と同じ店舗数へ縮小するなど別々に改革が進められた。しかし、分社化以降進めた改革の進展が遅れた2代目さくら野百貨店は2009年(平成21年)2月期に売上高が約120億円とピークから半減して約5億円の当期赤字となるなど経営不振が続いた。2009年(平成21年)7月15日の臨時株主総会と取締役会で分社化以降不振が続いていた2代目さくら野百貨店の社長らを退任させてさくら野東北社長と2代目さくら野百貨店会長だった臼井修がさくら野東北社長と兼務で社長に就任すると共に役員もさくら野東北から派遣し、分社化以降別々に行っていた商品調達や販促活動を再び一本化して合理化を図る方針が打ち出された。この再建策の一環として2010年(平成22年)2月期中に外商部門の新規の顧客開拓をやめて既存顧客の対応にとどめて事実上撤退して店頭販売に集中する一方で、共同持ち株会社の設立による経営統合の検討などが進められたが、紳士服や子供服、食器、寝具など6-8階の売場を縮小して7階と8階の一部にブックオフを入居させるなど外部企業に貸し出してテナント化を進めてテナント収入比率が大きく上昇する仙台店の方向性がさくら野東北が運営している他店の店舗戦略と大きく異なってきたため、2010年(平成22年)4月7日にメリットが少ないとして経営の再統合を断念して2代目さくら野百貨店の保有するさくら野東北株すべてを不動産会社の武田とその関係者に譲渡して株式の持ち合いを解消すると共に社長の兼任も解消することになった。この方針に沿って同年5月に経営体制を一新し、同年8月1日から2代目さくら野百貨店がエマルシェに社名変更し、同年9月12日に佐々木社長らエマルシェの経営陣で組織する持ち株会エマルシェ・フェニックス・プロジェクトが大株主の不動産会社の武田とクレディ・スイスグループから全株式の約80.48%にあたる3万2513株を取得するMBOを実施して資本関係の整理を進めて資本的な独立を高めることになった。また、このエマルシェの社名変更と同時にさくら野東北は3代目のさくら野百貨店となっており、現在企業名としてのさくら野百貨店はこの企業を指している。なお、この社名変更後も店舗名は従来通りでエマルシェの経営する店舗はさくら野百貨店仙台店として営業し、エマルシェと3代目さくら野百貨店の間の商品調達や販促活動などの連携も継続することになっている。3代目さくら野百貨店は従来1 - 4階を賃借して売場としてきたうちの3階の40%と4階の売場での営業を終了させて2010年(平成22年)9月から衣料や雑貨、飲食などの外部テナントを導入するという北上店の大幅な規模縮小を伴う大改装を行い、2012年(平成24年)2月期末に主要株主の不動産会社武田から約15億-20億円の債権放棄を受けて債務超過を解消し、2013年(平成25年)2月期中に食料品売り場を約2,600m²から約2,000m²に縮小して他の品目の売場に転換するなど弘前店の改装を行うのを皮切りに、2014年(平成26年)2月期中には八戸店、2015年(平成27年)2月期中には青森店、2016年(平成28年)2月期中には北上店と順次各店の改装を進めて全店舗を改装して競争力を高め、毎年20人前後の人材採用を行って人材育成も行うなど店舗と人材への前向きな投資を進め、コスト削減と平行して進めることで売上高経常利益率3%を目指す事業成長の段階への移行を図っている。上述の通り、2010年(平成22年)8月1日に社名変更する以前には、現在のエマルシェが「株式会社さくら野百貨店」で、現在の株式会社さくら野百貨店はさくら野東北株式会社であった。1951年(昭和26年)6月に現在地に開店して規模を拡大して百貨店化したカネ長武田百貨店青森店が経営母体の再編に伴って百貨店連合、ダックシティ、ダックビブレに引継がれて店名もダックシティカネ長武田青森店、青森ビブレと変遷しながら営業を続けて来た。そして経営母体のダックビブレの破綻とその後の再建に伴って2002年(平成14年)10月にさくら野百貨店青森店となり、その後運営する企業は初代さくら野百貨店からさくら野東北そして3代目さくら野百貨店と変遷しているものの店名はこの間同一で営業している。2005年(平成17年)4月に企業分割でさくら野東北が誕生した後は本社が当店に置かれており、本店格の店舗となっている。1976年(昭和51年)に開業したサンロード青森を皮切りに郊外型店の出店が相次いでモータリゼーションの進展と相俟って郊外への買い物客の流出が生じ、2003年(平成15年)に第2次世界大戦以前から百貨店として営業していた歴史を持ち同じ商店街に店舗を構えていた老舗百貨店の松木屋が閉店したため、現在は同じく青森に本拠を置く地場百貨店中三青森本店や青森市の第三セクターの運営するアウガなどと共に青森市の中心市街地の集客の核となっている。2015年(平成27年)2月期中に改装を予定している。ビルの所有者が現在の親会社でカネ長武田関連の不動産会社武田であるため、看板の上部にはビブレ時代からカネ長武田のロゴタイプがある。1971年(昭和46年)に土手町の中三弘前店に隣接して開店したカネ長武田百貨店弘前店が経営母体の再編に伴って百貨店連合、ダックシティ、ダックビブレに引継がれて店名もダックシティカネ長武田弘前店となり、1993年(平成5年)10月1日土手町の旧店舗を閉店して郊外の城東北の現在地に弘前ビブレとして移転したものである。1994年(平成6年)9月に隣接する形でシネマコンプレックスのワーナー・マイカル・シネマズを開設し、そして経営母体のダックビブレの破綻とその後の再建に伴って2002年(平成14年)10月にさくら野百貨店弘前店となり、その後運営する企業は初代さくら野百貨店からさくら野東北そして3代目さくら野百貨店と変遷しているものの店名はこの間同一で営業している。2013年(平成25年)2月期中に食料品売り場を約2,600m²から約2,000m²に縮小して他の品目の売場に転換するなど改装を行う計画が進んでいる。残った約600m²は、現在、薬局が入っている。1968年(昭和43年)6月28日に青森県八戸市三日町に丸光八戸店として開店し、経営母体の再編に伴って百貨店連合、ダックシティ、ダックビブレに引継がれて店名もダックシティ丸光八戸店、八戸ビブレと変遷しながら八戸市中心市街地において営業を続けて来た。そして経営母体のダックビブレの破綻とその後の再建に伴って2002年(平成14年)10月にさくら野百貨店八戸店となり、その後運営する企業は初代さくら野百貨店からさくら野東北そして3代目さくら野百貨店と変遷しているものの店名はこの間同一で営業している。近年はモータリゼーションの進展の影響で1995年(平成7年)に約33.2万人だった八戸市の中心市街地の通行量が2005年(平成17年)に約18.1万人に減少して、1997年(平成9年)に合計約730億円あった八戸市の中心市街地の売上高が2002年(平成14年)に合計約508億円と急激に落ち込んでラピア、イオン下田、ピアドゥなどの郊外型ショッピングセンターの売上が2002年(平成14年)に合計約440億円と匹敵するレベルに達するなど急激に進んだ中心市街地の空洞化の影響を受け、1985年(昭和60年)に開店したファッションビルヴィアノヴァと同じくファッションビルのチーノの債権が青森銀行から外資系ファンドに売却され、2003年(平成15年)4月に郊外に自社の店舗を開設したことを理由にイトーヨーカドー八戸店が撤退するなど店舗周辺の商業環境は厳しくなっているが、ライバルの百貨店三春屋と共に八戸市の中心市街地の中核店舗の1つとして営業を続けている。現在も百貨店として展覧会などの各種催事も行われている。1996年(平成8年)10月に地権者25人が設立した三日町番町地区市街地再開発準備組合の核店舗として当店が想定されていたが、ダックビブレの経営破綻で構想が宙に浮いて地権者全員の同意が得られなくなり、2004年(平成16年)4月に組合が解散して再開発構想自体が挫折した。その後2007年(平成19年)1月に中心市街地活性化策の一環として当店と近隣の金入や類家大学堂薬局を合せた敷地面積7,750m²を一体的に再開発する構想が浮上して再び店舗の再開発構想が進み始めている。また当社の成長戦略の一環として2014年(平成26年)2月期中に改装を行う方向で構想も進められている。2000年(平成12年)3月に岩手県北上市本通りにダックビブレが経営する北上ビブレとして開業し、経営母体のダックビブレの破綻とその後の再建に伴って2002年(平成14年)10月にさくら野百貨店北上店となり、その後運営する企業は初代さくら野百貨店からさくら野東北そして3代目さくら野百貨店と変遷しているものの店名はこの間同一で営業している。さくら野グループで現存する店舗では唯一、丸光・カネ長武田いずれの流れもくまない店舗である。従来1 - 4階を賃借して売場としてきたうちの3階の40%と4階の売場での営業を終了させて2010年(平成22年)9月から衣料や雑貨、飲食などの外部テナントを導入するという北上店の大幅な規模縮小を伴う大改装を行い経営効率の改善を目指した。この改装に伴ってビルを所有・管理している北上都心開発は賃貸が返上された約3,000m²の新たなテナントを募集を行うなど対応に追われると共に、国から借りている市街地再開発事業資金の返済を5年間先延ばしたため、その間北上市が肩代わりを余儀なくされるなどの影響が生じている。1946年(昭和21年)6月1日に丸光合名会社として雑貨店を開業し、1953年(昭和28年)10月に百貨店としての営業を開始した丸光仙台店が経営母体の再編に伴って百貨店連合、ダックシティ、ダックビブレに引継がれて店名もダックシティ丸光仙台店、仙台ビブレと変遷しながら営業を続けて来た。そして経営母体のダックビブレの破綻とその後の再建に伴って2002年(平成14年)10月にさくら野百貨店仙台店となり、その後運営する企業は初代さくら野百貨店から2代目さくら野百貨店そしてエマルシェと変遷しているものの店名はこの間同一で営業している。初代さくら野百貨店は2003年(平成15年)3月末に当時の7店全体の売上高の2割以上を占める当店を約12億円を投じて全面的に改装して東北初の売場を導入して若い女性客を増やして前年比20%増となったものの再生計画の前年比40%増の半分に留まり、2004年(平成16年)11月に高島屋の業務支援を受けて地下食品売り場を改装してさくら野ごちそう館とするなど改装を続けててこ入れし、2代目さくら野百貨店も2005年(平成17年)4月27日に高島屋の業務支援を受けて仙台店の7階のレストラン街を含む2-7階のフロアに約60の新規ブランドや売場を導入する大改装を行ったが、2代目さくら野百貨店は3期連続で純損失を計上して2009年(平成21年)2月期に売上高が約120億円とピークから半減して約5億円の当期赤字となるなど当店の経営不振が続いて、2代目さくら野百貨店の社長らを退任させてさくら野東北社長と2代目さくら野百貨店会長だった臼井修がさくら野東北社長と兼務で社長に就任すると共に役員もさくら野東北から派遣し、分社化以降別々に行っていた商品調達や販促活動を再び当店も含めて一本化して合理化を図る方針が打ち出された。この再建策の一環として当店は2010年(平成22年)2月期中に外商部門の新規の顧客開拓をやめて既存顧客の対応にとどめて事実上撤退して店頭販売に集中すると共に7階と8階の一部にブックオフを入居させるなど外部企業に貸し出してテナント化を進めてテナント収入比率が大きく上昇させる方針が打ち出され、6階に1坪程度の小さな店でも出店可能な仙台楽座、7階にブックオフの売り場、8階にブックオフの買い取りセンターと事務所が入居するなどの改装が行われた。2010年(平成22年)5月に経営体制を一新し、同年8月1日から2代目さくら野百貨店がエマルシェに社名変更し、同年9月12日に佐々木社長らエマルシェの経営陣で組織する持ち株会エマルシェ・フェニックス・プロジェクトが大株主の不動産会社の武田とクレディ・スイスグループから全株式の約80.48%にあたる3万2513株を取得するMBOを実施して資本関係の整理を進めて資本的な独立を高めるなど経営母体の資本構造や名称の変更が行われ、現在はエマルシェが当店を運営している。1955年(昭和30年)に宮城県石巻市の橋通りに開店した丸光石巻店が1967年(昭和42年)11月1日に旧北上川沿いの中央2丁目11番に移転し、百貨店連合、ダックシティ、ダックビブレに引き継がれながら営業して中央2丁目時代の最後はダックシティ丸光石巻店として営業した。1996年(平成8年)3月にJR石巻駅前に新店舗が完成すると、石巻ビブレに店名を変更して移転し、新店舗で営業を引き継いだが、経営母体のダックビブレの破綻とその後の再建に伴って、2002年(平成14年)10月にさくら野百貨店石巻店となった。2005年(平成17年)4月に民事再生計画に基づいて企業分割された後は、さくら野東北が運営していた。JR石巻駅前の新店舗は、当初シネマコンプレックスも併設していたが、2007年(平成19年)1月に郊外の蛇田地区に開業したイオン石巻ショッピングセンターへ移転して閉鎖となると共に、前後して同店周辺に郊外型店の出店が相次ぐなどして顧客を奪われて、売上高がピーク時の1998年(平成10年)の約89億円から2007年(平成19年)に約36億円に減少して2億円を超える赤字となった。2004年(平成16年)から続く赤字が拡大する恐れがあるとして2008年(平成20年)4月27日に閉店して、丸光以来の歴史に終止符を打った。閉店後、同店と旧店舗跡の土地・建物と共に現金2億円を石巻市に寄付し、閉店から約2ヵ月後の2008年(平成20年)6月28日に1階部分がスーパーを含む複合商業施設エスタとして開業し、2010年(平成22年)3月から石巻市役所が移転した。旧庁舎より市内各地からのバスが便が良く、高齢化時代にふさわしい立地と評価されている。1930年(昭和5年)に山田呉服店として創業し、1948年(昭和23年)に福島県福島市の本町通に百貨店を開業し、1973年(昭和48年)11月13日にJR福島駅前の平和ビルに移転・増床した山田百貨店が、経営母体の再編に伴って百貨店連合、ダックシティ、ダックビブレに引き継がれて、店名もダックシティ山田福島店、福島ビブレと変遷しながら営業を続けた。1998年(平成10年)3月に山田百貨店から引き継いだJR福島駅東口の平和ビルの旧店舗を閉店し、1000台収容の立体駐車場や7館からなるシネマコンプレックスを持つJR福島駅北側の福島市曾根田町(現:曽根田町)の新店舗へ移転して営業を引き継ぎ、若い女性を主要顧客として2001年(平成13年)2月期には売上高約90億円を上げた。しかし同年9月14日、親会社のマイカルと同時にダックビブレも経営破綻。経営母体の破綻の影響で、信用不安から売れ筋商品が1年近く入らなくなって一気に客足が遠のいた。その後の再建策により、2002年(平成14年)3月から賃料の3割減免を受けて年間3億円から4億円の負担軽減がなされ、同年10月にはさくら野百貨店福島店となったものの、2001年(平成13年)2月の高速バスにおける規制緩和によって仙台 - 福島線にて増便・運賃値下げ競争が年々激しさを増し、仙台市に買物客が流出。2004年(平成16年)2月期には売上高55億8300万円に落ち込み、2億円弱の赤字に陥った。賃料の減免は当初2年間とされていたため、2003年(平成15年)7月から三井住友銀リースと減免延長の交渉行ったが決裂して、2004年(平成16年)10月28日に契約解除が決まった。初代さくら野百貨店は2005年(平成17年)3月21日に福島店を閉店し、山田呉服店として創業して以来75年の歴史に終止符を打った。閉店後は、JR福島駅前の福島駅前通りのニュー福ビルに贈答品や制服などを扱うサテライト店を開設して、一部業務を引き継いだが、こちらも閉店した。跡地には、閉店直前に福島商工会議所などの提案で福島市役所移転が検討されたが実現せず、2010年(平成22年)にビルを所有していた積水ハウスから、福島市の第三セクター福島まちづくりセンターが約9億円で土地と建物を取得し、同年11月25日に同社が運営する曽根田ショッピングセンターMAXふくしまが開業している。1966年(昭和41年)6月10日に宮城県気仙沼市に丸光気仙沼店として開店し、経営母体の再編に伴って百貨店連合、ダックシティ、ダックビブレに引き継がれて、店名もダックシティ丸光気仙沼店、気仙沼ビブレと変遷しながら営業を続けた。しかし、ダックビブレが経営破綻直後の2001年(平成13年)10月に閉店を決定し、2002年(平成14年)1月10日に気仙沼ビブレは閉店して、丸光以来の歴史に終止符を打った。この閉店を受けて、ダックビブレの部長級の市街地再開発担当や元従業員や地権者らの出資により、資本金1200万円でイコーレ気仙沼が設立され2002年(平成14年)5月9日に新たな百貨店として開業させた。しかし、テナント招致などが順調行かず、徐々に規模を縮小して経費削減などに取り組んだものの、2007年(平成19年)5月11日に「都合により臨時休業します」という張り紙が出され、事実上閉店に追い込まれた。建物は長い間放置され、その間に東日本大震災の津波による被害を受け、その後解体された。1999年(平成11年)3月に小樽市のマイカル小樽の中核店舗として開業した。マイカル小樽全体の総売上高は目標の80%以下になるなど、施設全体の業績が低迷した影響で当店も低迷したため、2001年(平成13年)2月に小樽ビブレを株式会社マイカルに譲渡してダックビブレは撤退し、2002年(平成14年)8月末に閉店した。同店の土地・建物を所有・管理していた小樽ベイシティ開発は、マイカル破綻後の2001年(平成13年)9月27日に東京地方裁判所に民事再生法の適用を申請して事実上倒産し、同店の店舗後の一部を閉店した翌月9月、小樽市に公的利用を前提に無償譲渡を提案したが、移転させる公共施設がない上、維持管理に年間1億円以上の負担が見込まれるとして譲渡を断られた。翌10月にはキャンパスの移転を模索していた小樽短期大学が、文部科学省の許可を得るのが難しいとして断念するなど、大口債権者の日本政策投資銀行が債権放棄をする上で条件とした非物販の公共施設の導入は順調に進まなかった。ニチイ山形店をは1973年(昭和48年)3月3日に開業したのが始まりである。1994年(平成6年)3月1日にニチイより営業譲渡を受けて山形ビブレを開業したが、業績不振により2000年(平成12年)1月10日に閉店した。店舗跡のビルは2001年(平成13年)に解体されて、ホテルの招致が行われたが、実現しなかった。1981年(昭和56年)11月6日、百貨店連合として初の新店舗として神奈川県厚木市の小田急電鉄本厚木駅前に開業したが、1992年(平成4年)2月にニチイに譲渡して撤退した。その後、経営母体が社名変更でマイカルとなった後、イオンリテールに吸収され、店名も厚木ビブレ・厚木サティを経て、現在はイオン厚木店となって営業を続けている。百貨店連合の結成時より参画していたが、1997年(平成9年)2月にダックシティイチムラ長岡店のまま閉店した。店舗跡は再開発されて、長岡市役所大手通庁舎などが入居するフェニックス大手の一部となっている。百貨店連合の結成時より参画していたが、1996年(平成8年)にダックシティ小美屋川崎店のまま閉店した。店舗跡は再開発されて、TOHOシネマズ川崎などが入居する川崎DICEとなっている。さくら野百貨店の前身の一つであるカネ長武田百貨店の創業者が、青森県内のヤクルトの営業拠点である青森ヤクルト販売を創業した経緯から、東京ヤクルトスワローズの優勝翌日や、クライマックスシリーズ・日本シリーズ終了の翌日から数日間青森県内3店舗と北上店でセールを実施している。また、さくら野百貨店は東北楽天ゴールデンイーグルスのオフィシャルスポンサーでもあるため、楽天が2013年に優勝・日本一になった時には仙台店は元より、その他の各店舗でもセールを実施した。2008年(平成20年)5月1日より、クレディセゾン発行による「さくら野〈セゾン〉カード」の開始し、旧マイカルカード時代から継続してきたポケットカードとの提携による「さくら野カード」の新規の加入を停止し、既存のカードのサービスも徐々に縮小している。

出典:wikipedia

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