LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

立太子の礼

立太子の礼(りったいしのれい)は、日本の皇室の儀式の一つ。立太子礼とも。少なくとも奈良時代には、天皇の詔によって皇太子が指名されていた。平安時代前期の『貞観儀式』にて立皇太子儀として定められ、確立された。10世紀の醍醐天皇からは、壷切御剣(つぼきりのぎょけん/みつるぎ)が皇太子の証として伝えられるようになった。かつては天皇が複数の候補者の中から皇太子を決めていたため、立太子の礼を行って皇太子を正式に定めること(立太子)は極めて重要な意義を持っていた。しかし南北朝時代の崇光天皇(北朝)から江戸時代の後西天皇までの300年余り途絶え、復興されたものの、すでに立太子に先立って儲君治定(後継者指名)が行われるため、立太子の礼の後継者指名としての意味合いは低下していた。さらに明治以降は、皇室典範制定により、同法で定められた皇位継承順位に従って皇太子が決まるため、立太子の礼は完全に儀礼的なものとなった。明治以降、立太子の礼が行われたのは、以下の4例である。明治42年(1909年)2月11日に、立太子にまつわる詳細を定めた立儲令が施行されたが、昭和22年(1947年)5月2日付けで廃止されている。立太子および立太子の礼については、皇室典範にも規定は無い。そのため、政教分離を定めた日本国憲法下では、そのつど天皇の国事行為(=国の儀式)として行われることが閣議決定され、また国事行為として行われる儀式と宮中三殿への拝礼が分離されるよう配慮している。大正5年(1916年)11月3日、大正天皇即位礼(前年11月)以来最初となる明治節の日に行われた。昭和27年(1952年)11月10日、継宮明仁親王の成年式と同時に行われた。同年4月の主権回復後最初の国事であり、国民的な盛り上がりを見せた。当日、明仁親王の東宮仮御所から皇居までの移動は、馬車でのパレードが行われ、沿道には多数の市民が詰めかけた。明仁親王は宮中三殿を拝礼し、成年と立太子を奉告した。この後、明仁親王は11月18日に伊勢の神宮を、19日に畝傍陵を、20日に多摩御陵をそれぞれ拝礼し、立太子礼の終了を報告した。当時の日本国民にとって、復興と希望の象徴であった明仁親王の立太子は、大きな祝福を持って受け止められ、自治体・民間それぞれで多数の祝賀行事が催された。また、式典の最中、衆議院議長:大野伴睦は感激のあまり号泣し、吉田茂も涙で寿詞が途切れがちであったという。翌11日、皇居で一般参賀が行われ、合計5回20万人以上もの国民が皇太子明仁親王を祝福した。特に、第1回目の参賀では、国民から自然発生的に君が代の合唱が巻き起こった。9日に発表された、皇太子の長期外遊(エリザベス女王戴冠式など)への期待が高まるとともに、成年を機に、皇太子妃が誰になるか"お妃候補"にも大きな関心が高まっていった。平成3年(1991年)2月23日、浩宮徳仁親王の満31歳の誕生日に行われた。なお、徳仁親王は今上天皇の践祚時点(昭和64年1月7日)で成年に達しており、すでにマスコミ報道では「皇太子」の呼称が用いられていた。今上天皇の即位の礼(平成2年(1990年)11月)を経て、立太子礼が行われた。これに先立つ1月8日の閣議決定により、「立太子宣明の儀」「朝見の儀」「宮中饗宴の儀」が天皇の国事行為(=国の儀式)として行われた。また、立太子礼のために9400万円が計上され、一方恩赦は行われなかった。また、湾岸戦争の最中であり、簡素にとの配慮がなされ、宮中饗宴の儀は大幅に縮小された。クウェート大使は招待されたが、イラク大使は即位礼に続き招待されなかった。特に翌2月24日には地上戦に突入するなど立太子礼当日は極めて緊迫した状況にあり、日本の国会議員20名余りに加え、19か国の大使が欠席する事態となった。宣明の儀に引き続き、鳳凰の間で、天皇から皇太子となった徳仁親王に壷切御剣が親授された。また、正午には鳳凰の間で衆参両院で決議された賀詞が天皇に奏上された。この後、徳仁親王は2月26日に伊勢の神宮を、27日に神武天皇陵を、28日に昭和天皇陵をそれぞれ拝礼し、立太子礼の終了を報告した。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。