大小路町(おおしょうじちょう Ōshōji-Chō)は、鹿児島県薩摩川内市の大字。旧高城郡水引郷大小路村、高城郡水引村大字大小路、薩摩郡東水引村大字大小路、薩摩郡川内町大字大小路、川内市大小路町。郵便番号は895-0076。人口は1,931人、世帯数は929世帯(2011年4月1日現在)。「大小路」という地名はこの地あったとされている国府、国分寺に通じる「大路」、「小路」に由来している。薩摩川内市の西部、川内川下流域に所在している 。字域の北方には御陵下町、国分寺町、川内川を挟んで南方には向田本町、白和町、横馬場町、西方には若葉町、大王町、東方には原田町、東大小路町にそれぞれ隣接している。字域の西部には国道3号が南北に通っており、北部には大小路町交差点があり、東方に国道267号、西方に鹿児島県道44号京泊大小路線が通っている。字域の南部にある泰平寺(現在の建物は再建されたもの)は九州の役の際に現在の薩摩川内市平佐町で勃発した平佐城の戦いで島津氏側が降伏した後に、豊臣秀吉が泰平寺を御座所として接収、島津義久が豊臣秀吉に謁見し、島津氏が降伏した場として知られる。大小路という地名は江戸期より見え、薩摩国高城郡水引郷(外城)のうちであり、村高は「加増目録」では431石余、「天保郷帳」では437石余、「旧高旧領」では806石余であった。1875年(明治8年)に向田との間に初めて太平橋が木橋がかけられた。しかし、1877年(明治10年)に起こった西南戦争によって焼失し、その後何度も架け替えられ、現在は国道3号の路線上に設置されている。1889年(明治22年)に町村制が施行されたのに伴い、水引郷の全域より水引村が成立し、江戸期の藩政村である大小路村は水引村の大字「大小路」となった。1891年(明治24年)には水引村が東水引村と西水引村に分立し、大小路は東水引村の大字となり、その後1929年(昭和4年)に東水引村が隈之城村、平佐村と合併し川内町の大字となった。1940年(昭和15年)に川内町が市制施行し川内市となり、川内市の大字「大小路町」となり、同時に一部が国分寺町、御陵下町に分割された。1965年(昭和40年)には一部が大王町、若葉町が分割され、1981年(昭和56年)には東大小路町、原田町に分割された。以下の記述は角川日本地名大辞典 46 鹿児島県 151頁の記述に基づく。市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる。大小路町交差点にて、国道3号、国道267号、鹿児島県道44号京泊大小路線が交差している。現在の国道3号側の表記は大小路町交差点ではなく国道267号入口(こくどう267ごういりぐち)とされている。
出典:wikipedia
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