北海道駒ヶ岳(ほっかいどうこまがたけ)は、北海道森町、鹿部町、七飯町にまたがる標高1,131 mの活火山(成層火山)である。渡島国・渡島半島のランドマークとなっている。蝦夷駒ヶ岳(えぞこまがたけ)、渡島駒ヶ岳(おしまこまがたけ)とも呼ばれる。江戸時代の旧称は内浦岳。富士山型の紡錘状の山容から谷元旦が描いた絵画が渡島富士(おしまふじ)と呼ばれ、郷土富士となっている。「北海道」を冠するのは全国に多数存在する同名の山と区別するためであり、地元・北海道では単に駒ヶ岳と呼ばれる。山頂部には直径約2 kmの火口原があり、西の剣ヶ峯、北の砂原岳、南の馬の背・隅田盛で囲まれるほか、山腹は、火山噴出物で覆われる地形輪廻の原地形(初期段階)を見せる。山頂直下からガリ侵食が始まり、一部で深いV字谷を形成し始める途上にある。山麓には、堰止湖である大沼、小沼などの湖沼や湿地など豊かな自然環境が形成され、一帯は1958年(昭和33年)7月1日に大沼国定公園に指定された。山麓一帯は函館港の開港後の明治時代からリゾート地として親しまれていて、小松宮と有栖川宮の皇族やドイツやイタリアの皇族が訪問している。明治14年には、皇太子時代の大正天皇が大沼を訪問することにより、いっそうこの地が有名になった。1915年(大正4年)には北海道駒ヶ岳を望む大沼の風景が新日本三景に選定された。七飯町の大沼方面からみると、横に長く、なだらかで優美な女性的印象を与えるが、森町方面や鹿部方面からみると一変し、荒々しい山肌と傾斜が目に付く男性的な激しい姿を見せる。大沼方面から見た山容が馬がいなないている姿に似ていることが、山名の由来であると言われている。地質は安山岩質であるが、軽石などの火山砕屑物を大量に噴出する特徴があり、山体の周辺に厚く堆積している。噴火活動自体は、3-4万年前から断続的に行われてきたと考えられている。正確な活動開始年代は明かになっておらず、約3万年前とする説と、約10万年前とする説がある。山体が形成された4万年前以降3回の噴火活動期があり人間の活動に影響を与える噴火は、約6,000年前に降下火砕物と火砕流を伴う活動をし、約5,500年前に降下火砕物の活動の痕跡があったが、以降は江戸時代まで、約5,000年間は活動を休止していた。1980年(昭和55年)10月に、周辺の森町、旧砂原町、鹿部町、旧南茅部町、七飯町の5町により、「駒ヶ岳火山防災会議協議会」が設置された。大噴火を起こした際には、過去の活動から周辺市町村の埋没、対岸への津波の発生など破局的な被害が想定されている。従って、積極的な監視、防災施設の設置が進められ、気象庁などは地震計、空振計、GPS、傾斜計、遠望カメラを設置し、地元自治体とイントラネットで結び24時間の観測態勢を取っている。駒ヶ岳火山防災会議協議会により、ハザードマップが作成されている。また、脆弱な火山噴出物が降雨毎に流出することから、山麓では砂防工事、治山工事(防衛施設庁の代替工事を含む)が進められている。北海道駒ヶ岳は気象庁による常時観測火山に指定され、気象庁、北海道大学などによる観測が行われている。裾野の大沼付近は、先駆性樹種であるカラマツやエゾマツなどが繁茂し、良好な景観を保持しているが、山体部分では、20世紀中の度重なる噴火により木本類などの生育は絶えて久しかった。しかし、1990年代以降、徐々に活動が沈静化するとカラマツ、エゾマツ、トドマツ、クロマツなどの先駆樹種が旺盛な成育を見せるようになった。高さ10 m以下の若い木が多い。山麓から高度を上げていくとナナカマドなどの灌木帯となり、標高300 mから上部が森林限界となり、火山の裸地にイワギキョウやシラタマノキなどの高山植物の植生が回復してきている。オンタデ属のウラジロタデやヤナギ属のミネヤナギなども見られる。山麓ではミズバショウやフクジュソウが見られ、山麓のナラなどの広葉樹林帯は北海道の鳥獣保護区に指定されている。森にはキツツキやシジュウカラ科の野鳥やエゾリス、キタキツネ、サンショウウオ、タヌキなどが生息する。昭和初期には、周辺には炭焼き小屋が多数あった。2011年現在、8軒が炭を専業で作っている。ナラやイタヤカエデの木で作られた炭は硬く、道内などで消費されている。渡島半島の内浦湾の南岸に位置する。剣ヶ峯と呼ばれる七飯方面から見て右側に尖った部分の標高1,131 mのこの山の最高点である。八雲側から見て右側のやや盛り上がった峰部分の砂原岳(さわらだけ)には、1896年(明治29年)8月に陸地測量部の館潔彦らが設置した一等三角点(点名「砂原岳」、標高1,112. m)があるが、降灰等により埋没している。アイヌ語の「サラキ」(鬼芽)が砂原岳の山名の由来である。火口はその2つの峰を挟んだ山の中央部にある。山麓の西側を大沼回り、東側を砂原回りのJR北海道函館本線が通り、山頂は駒ヶ岳駅の東北東6.2 kmに位置する。東山麓には陸上自衛隊の駒ヶ岳演習場がある。日本には同名の『駒ヶ岳』と呼ばれる名山が多数ある。1860年(文久元年)にロシアの植物学者のマキシモヴィッチ(Carl Johann Maximowicz)とイギリスのブラキストン(Thomas Wright Blakiston)が日本滞在の際に登頂した。1967年(昭和42年)に『日本百名山』の著者である深田久弥が、日本山岳会の会員らと共に登頂し剣ヶ峯の手前の砂礫地でイワギキョウとイワブクロの花を確認した。日本二百名山、北海道百名山に選定されている。噴火活動は小康状態を取り戻しているものの、噴火により登山道の大部分が被害を受け、今や登山道の呈をなしていないこと、また、山麓一帯での防災工事のための大型車両が頻繁に走行していること、ワイヤーセンサーなど観測機器の管理上の問題等から入山禁止状態が続いている。なお、2007年度から、地元の駒ヶ岳火山防災会議協議会事務局が試行的に日程や人数を限定した中で、「火山勉強会」の形式を採りながら集団登山を実施している。2010年6月3日に馬ノ背(標高900 m)付近までの入山規制の一部が解除され、山頂部の入山規制が継続している。初級者または中級者向きの三つの登山コースがある。山頂には、剣ヶ峯、砂原岳、隅田盛の3つのピークがある。ルート上に水場や山小屋はない。文化年間に画家の谷文晁が噴火前の山を描き、『日本山岳絵図』で「内浦岳」として紹介した。多くの歌人が駒ヶ岳を詠んでいる。駒ヶ岳には、蝦夷(アイヌ)と和人(シャモ)のかかわりを反映した伝説がある。矢越岬の海神の怒りを鎮めるために、大館(松前)の相原季胤は蝦夷の娘20-30人を海に沈め人身御供とした。蝦夷は怒って蜂起、季胤は二人の娘を連れて大沼まで逃亡するも逃げ切れず、1513年(永正10年)7月3日ついに二人の娘は入水。季胤は馬と共に湖中の小島に上がり、そこで自害した。自害する際、季胤は愛馬に山上に逃げるよう言い聞かせ、これに従った馬は勢い良く山に上った。そのためこの山を駒ヶ岳と呼び、季胤が外した鞍を掛けた岩を鞍掛岩と呼ぶようになった。以来季胤の命日には駒ヶ岳から馬の鳴き声がするという。
出典:wikipedia
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