今野 泰幸(こんの やすゆき、1983年1月25日 - )は、宮城県仙台市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ガンバ大阪所属。ポジションはミッドフィールダー(ボランチ)、ディフェンダー(センターバック、サイドバック)。元日本代表。小学校1年時からサッカーを始めた。サッカー強豪校の東北高等学校には、スポーツ特待生に入れず 一般受験で進学したが ここで頭角を現し宮城県選抜 に選ばれ富山国体への出場、東北高では全国選手権への出場を経験。ナショナルトレセンやユース代表候補合宿への参加もあったが、プロクラブからの勧誘の対象にはならず、卒業後は地元のソニー仙台への加入が内定していた。しかし、コンサドーレ札幌に練習参加する機会を得て、岡田武史監督の注目するところとなり、同クラブと契約。札幌への入団内定後に出場した高3冬の全国選手権ではベスト8に進出した。札幌では、岡田監督からボールホルダーへの素早いアプローチと奪取力を評価され、加入初年度の2001年から先発出場の機会を得た。さらに2001 FIFAワールドユース選手権に出場するU-20日本代表に飛び級で選出されレギュラーポジションを獲得したものの、本大会直前の怪我により自身の出場を逃した。2002年には主軸として期待され背番号が4に変更された。同年、大熊清監督率いるU-19日本代表に招集され、AFCユース選手権・カタール大会にキャプテンとして出場し 準優勝に貢献。一方、札幌では柱谷哲二新監督によりレギュラーとして起用されたがチームは苦戦を強いられ、自身もシーズン途中での監督交代やリーグ最下位でのJ2降格(代表招集中に降格が決定)も味わった。2003年12月にはU-20日本代表として、FIFAワールドユース選手権・UAE大会に出場。2004年に「J1であること」、「若手の出場機会が多い」、「まだタイトルを取った事が無いチームで、チームと共に成長できると思った」ことが決め手となり、J1のFC東京に完全移籍した。前年末のワールドユースが終了してすぐの 1月からは山本昌邦監督率いるU-23日本代表に飛び級で招集され、アジア地区最終予選では代表チームでただ一人全6試合にフル出場しアテネオリンピック出場に大きく貢献。8月のオリンピック本大会にも出場した。同年のヤマザキナビスコカップ決勝では、FC東京のセンターバックであるジャーンが退場し1人でボランチを任されることになったが、延長戦を含む100分近い時間を守りきり、自身にとってもクラブとしても初のタイトル獲得を果たした。原博実監督は今野の守備について「間合いの取り方も、相手への体の入れ方もうまいし、ファウルしないでボールを奪える。日本人離れしている」と絶賛した。また、原からは攻撃面の能力を見出され、2005年には自己最多となるリーグ戦7得点を記録。同年12月のJ1最終節では後半ロスタイムに同点ゴールを決め、結果的にC大阪の優勝を阻止した。ただし原は、自分で守りきれる能力があるために声を出して味方を動かすことができていない、と欠点も挙げており、今野に声を出させるためにボランチのパートナーを外す布陣を敷くこともあった。2005年7月、東アジアサッカー選手権においてジーコ監督率いる日本代表に初選出され、同大会の中国戦で国際Aマッチ初出場を記録した。同年末、イタリア・セリエAのUSレッチェから興味を持たれていたが、12月の天皇杯浦和戦で左膝内側側副靱帯を損傷してしまう。イタリアに渡り診察を受けたものの、レッチェが想定する以上の重症だったことから 正式オファーには至らなかった。2006年10月、イビチャ・オシム監督から日本代表に選ばれ、ガーナ戦で代表では初めてとなるディフェンダーとして右センターバックのポジションでフル出場した。11月のサウジアラビア戦ではフォワードのヤセル・アル・カフタニのマークにつく一方で、果敢なオーバーラップから2点目をアシストし、3点目の起点となるパスを配球。いずれも我那覇和樹の得点を導いた。これ以後もオシムは「好みではないポジションも喜んでやる準備ができている」 と今野を高く評価し、サイドバックなど複数のポジションで起用した。2007年12月初頭の天皇杯開催中に、今野の代理人である西真田佳典の売り込みにより、浦和、G大阪、名古屋と移籍交渉を行なっていると報道されたが、FC東京の次期監督就任が発表された城福浩と面談しチーム構想や強化方針に共感し、12月29日に残留が発表された。この際の契約を経て今野はFC東京の最高年俸日本人選手となった。2009年は第9節よりセンターバックにコンバートされ、玉際の強さや優れたカバーリングを発揮。さらに両足でのフィード力を活かして同じくCBのブルーノ・クアドロス、ボランチの梶山陽平らとFC東京のポゼッションサッカーの起点となった。オシム退任後、日本代表監督となった岡田武史は今野を「ユーティリティーがあって貴重な選手」と評し 常に代表に選出。2010年に開催されたワールドカップ・南アフリカ大会日本代表メンバーにも選出し、宮城県出身選手として初となるワールドカップ日本代表選手となった。本大会直前に行われたコートジボワールとの親善試合で左膝靭帯損傷の怪我を負ったものの、懸命のリハビリを行い本大会に間に合わせ、グループリーグ第3戦のデンマーク戦において途中出場を果たしたが、本大会での出場はこの1試合に終わった。この年、城福監督は今野を「日本でトップ・オブ・センターバック」と評し、中盤の選手に負傷離脱が相次いだ中でもセンターバックに据え続けた。また、ボランチとしては前方へのパスを出す能力に課題があるがダイナミズムを出せるとして、より攻撃に比重をかけたい状況になった場合には、控えディフェンダーを投入するなどして今野を中盤に上げるという起用法を採っていたが 結果は伴わず、札幌所属時以来2度目のJ2降格を経験。岡田の後任として日本代表監督に就任したアルベルト・ザッケローニは、初采配となった2010年10月8日のアルゼンチン戦以降全試合で今野をセンターバックとしてスタメン起用した。2011年1月に開催されたAFCアジアカップでは、ザッケローニからディフェンス陣のリーダーに指名され、同じくセンターバックの吉田麻也をリードし 経験の少ない守備陣を統率。全試合にフル出場し(日本代表では今野と長友佑都のみ)、日本代表の優勝に貢献した。2011年、FC東京のキャプテンに就任。J2最少失点となる堅守を築き、1年でのJ1復帰を達成。同年のJリーグアウォーズにてJ2 Most Exciting Playerの初代受賞者として表彰された。また、主将の大役を任されたことでチーム全体へ目を向け、原から指摘された「声」についても積極的になり、自身の殻を破る1年となった。天皇杯決勝の京都戦では、先制を許した直後に同点ゴールを決め、チームの天皇杯初優勝に貢献。代表では11月11日の2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選タジキスタン戦で国際Aマッチ初得点を記録した。2012年、「一段階も二段階も上がっていかなきゃいけない」とさらなるチャレンジを目指すため、ガンバ大阪へ完全移籍。ブラジルワールドカップ予選では、日本代表のワールドカップ出場に貢献した。7月21日、カシマスタジアムで行なわれた東日本大震災復興支援 2012Jリーグスペシャルマッチでは、被災地選抜チーム「Jリーグ TEAM AS ONE」(仙台・鹿島の選手と東北地方出身選手による混成チーム)の一員として出場した。この年、G大阪は深刻な不振に陥り、失点数はリーグワースト2位を記録してしまうなど シーズン通して守備陣を統率できず、自身3度目のJ2降格となった。2013年、日本代表との並行日程のためリーグ戦の約4分の1ほどを欠場したが、センターバックだけでなくボランチとしても安定したプレーを見せ、G大阪のJ2優勝と1年でのJ1昇格に貢献した。2014年、G大阪では前年に引き続きボランチでの起用が続いたが、代表との役割の違いから本調子とは程遠い状態が続き、チームもW杯ブラジル大会中断前は降格圏の16位に低迷してしまう。第8節大宮戦では途中出場で決勝ゴールを決めたが、自身が投入された直後に同点にされたことで試合後には「舌を噛んで死にたいと思いました。本当に」とコメントするなど精神的にも追いつめられていた。5月、W杯ブラジル大会の日本代表メンバーに選出されたが、直前の親善試合や第1戦コートジボワール戦はスタメンから外れる。第2戦ギリシャ戦と第3戦コロンビア戦はスタメンで起用されたが、コロンビア戦では自身のファウルで相手にPKを献上してしまうなど、クラブでの不調からの脱却ができずチームもグループリーグ敗退となった。中断明け以降、ボランチに専念し遠藤保仁と共に中盤を締め、攻撃面でも間接的に絡むプレーを見せるなど自身が「人生最大のスランプ」と語った不調を払拭する好パフォーマンスを発揮。11月にはハビエル・アギーレ体制となった日本代表にW杯以来となる復帰を果たし、11月18日の親善試合オーストラリア戦ではボランチとして出場し自身3年ぶりとなる代表での得点を決めた。自身の復調と共にG大阪も後半戦は猛烈な巻き返しを見せ、昇格1年目でのJ1優勝を果たし、さらにはG大阪の国内三冠達成に大きく貢献した。2015年、1月にオーストラリアで行われたAFCアジアカップ2015ではグループリーグのイラク戦で左太もものハムストリング肉離れで戦線離脱し、2月のキャンプには復帰するもまたも同じ左太ももを故障し2015年シーズン開幕に間に合わなかった。自身が離脱中、チームは公式戦2分3敗と低空飛行を続けるも、4月上旬に復帰しその後は安定したプレーを見せ、G大阪の復調を支えた。CS準決勝浦和戦では先制ゴールを決め決勝進出に貢献。決勝の広島戦では第1戦・第2戦共にセットプレーからゴールを決めるもいずれも勝利には結びつかず後一歩でリーグ連覇を逃した。天皇杯決勝浦和戦では試合開始早々に米倉恒貴が負傷交代したことで右サイドバックを務めることになり、勝ち越した後半は浦和の猛攻を受けるもこれを耐え抜き天皇杯連覇を達成した。2016年、第3節の大宮アルディージャ戦ではチーム事情でディフェンダーとしてプレー。高いボール奪取能力を備え、スピードがあり、球際や1対1に強く、カバーリングに長けている。危機を察知する判断のよさと速さもあり、あらゆる面で、安定した対応ができる。またパスセンスもありビルドアップに長け、攻撃の起点にもなる。2009年にFC東京のセンターバックに固定して起用した城福浩は、「トップ・オブ・センターバック」と評している。本来のポジションであるボランチ、日本代表で務めていたセンターバックに加え、両サイドバックをこなすことができ、守備のユーティリティープレイヤーでもある。また運動量が多く、タフな選手であり、国際経験も豊富。一方で、身長178cmと絶対的な高さはない。357||39||51||3||33||2||441||4491||7||colspan="2"|-||4||1||95||4448||46||51||3||37||3||536||48その他の公式戦|2012||rowspan="3"|G大阪||rowspan="3"|15||5||0!通算!!colspan="2"|AFCその他の国際公式戦|-!通算
出典:wikipedia
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