LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

村田正太

村田 正太(むらた まさたか、1884年10月5日 - 1974年12月20日)は、日本の医師、医学研究者。梅毒血清反応「村田法」の創始者。ハンセン病研究者。エスペランティスト。1926年から1933年まで大阪府外島保養院院長を務めたが、外島事件で辞任した。患者を一人の人間として対等に「キミ」と呼び、遇したのは当時としてはたいへん珍しい。その後職に就かず、神奈川県二宮町で個人的研究生活に入る。法律を勉強していた時に知った女性がらいに罹患し、生涯らいに尽そうと決意した。光田健輔を紹介され、同氏の指示をうけ、医学の道に進む。東京伝染病研究所では、梅毒血清反応を研究。村田反応を創設した。大阪府外島保養院院長席が空席をなり、村田が起用された。大正15年(1926年)着任。同院は全く闇黒時代で、患者は博打を打ち、風紀は乱れていた。彼は食費13銭を一挙に22銭に上げ、院内の自治を認めたので、今まで虐げられていた患者は院長を慈父と呼んだ。しかし、患者内に急進派と保守派の対立が激化してきた。昭和7年(1932年)、職員に共産党員が入り活動を始めた。院長の、患者の自治を尊重する姿勢もアカと誤解されて、1933年8月院長が不在時に所轄の警察署の手入れが始まり、「外島事件」の始まりとなる。院内の平和のために、急進派患者20名を、言い含め、私金10円をもたせ、放出する。それが府警はじめメディアに烈しい批判を浴びる。村田自身も特別高等警察の厳しい取り調べを受けた。東京大学出身の大阪大学教授らが彼を弁護したが、同年10月、村田は同院を去る。その後、神奈川県二宮町の自宅(借家)で研究を続けた。昭和53年(1978年)11月16日、郷土の高知県野市町(現香南市)にて「救らいの父 村田正太先生顕彰碑」の除幕式が行われ、記念行事があった。東京大学、群馬大学名誉教授長谷川秀治が長文の碑文を作り、(実際に出席したのは代理の遠藤正義)、高知県知事・中内力(出席は阿部厚生労働副部長)が揮毫を行った。国立療養所邑久光明園園長・原田禹雄は祝辞を述べた。その中で、ある患者が涙を浮かべて「村田先生の薫陶を受けたものが邑久光明園に30名、全国に40名ほどいることを奥さまや皆さまに伝えて欲しい」と書いている。几帳面で一本気なところがあり、一度言い出したら後に引かないところがある。このことは、外島事件でもよくあらわれている。土佐弁でいうと、いごっそう,ともいわれ、頑固で気骨の在る男等を意味する。ドイツ語がよくできるのに、東京大学の卒業論文を日本語にして落第されかかったり、生涯、博士号をとらなかったことが語られている。 1941年のらい学会で議長をつとめ、小笠原登をつるし上げるのに荷担した。 光田健輔は療養所の患者を、一つの家族のようにして統率しようとしたが(大家族主義)、村田は患者の人格を尊び患者の自治によって統率しようとした(自治主義)。   旧外島保養院誌(1)~(44) 桜井方策(旧外島保養院医官) 楓 1968-1970 初代所長今田虎二郎、二代所長村田正太、初代医長菅井竹吉、その他職員、患者の生活、外島騒動など、詳しい。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。