片山 楊谷(かたやま ようこく、宝暦10年(1760年) - 享和元年8月24日(1801年10月1日))は、江戸時代中期に活躍した長崎派の絵師。長崎出身。本姓は洞、名は貞雄、通称は宗馬。楊谷は号で、初号に洞勸、別号は画禅窟。一説に「名は温、一に義夫、字は玉如。父は長崎で医者をしていた洞雄山、あるいは洞雄敬の子として生まれる。一説に父が中国人で、母は日本人とも言われるが定かではない。幼少時に父を亡くしている。1772年(安永元年)13歳で諸国を巡歴して、19歳の時には既に5人の弟子がいるほどの腕前だった。17歳で鳥取の興禅寺に逗留して絵を描き、のちに法美郡桂木村の医師・中山東川の娘を妻とする。若桜藩主・池田定常に絵を気に入られ、貞経は楊谷を引き止めるため、1792年(寛政4年)鳥取藩士で茶道役の片山家に夫婦とも養子とした。翌年家督を継ぎ、亡くなるまで9年間務めた。1795年(寛政7年)湯治のため藩の許しを得て京都に行き、画名を得たという。円山応挙に弟子入りを請うと、応挙はその画才を見て驚嘆し、弟子ではなく友人として迎えた。また、学芸を好んだ妙法院門主真仁法親王の前で席画を披露する。更にその兄・光格天皇は楊谷を宮中に招き、従五位下の位階を与え楊谷に数十幅の画作を依頼する。楊谷が画を完成させ披露すると、天皇はその出来に満足し褒美としてと名硯・石王寺硯を与えた。楊谷はこれを愛用し一生肌身離さなかったいわれる。1800年(寛政12年)但馬の山路寺で数多くの障壁画を手掛け、現在兵庫県指定文化財になっている。ところが、但馬の湯村温泉で入浴中、突然発病してにて死亡。享年42。菩提寺は鳥取の興禅寺、または長崎の大音寺。画風は費漢源に近く、その弟子に画法を学んだと推測される。しかし、沈南蘋や他の長崎派の画風も摂取していったことが観察できる。特にその虎の絵は、虎の毛を細い線で丹念に表し、「楊谷の毛描き」と呼ばれている。鳥取県立博物館の企画展「楊谷と元旦 -因幡画壇の奇才-」(2010年(平成22年)5月22日から同年6月20日まで)図録を参照。
出典:wikipedia
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