プリンス・セダン("Prince Sedan" )はたま自動車(のち、プリンス自動車工業を経て日産自動車)が1952年(昭和27年)3月から、1957年(昭和32年)4月まで製造・販売していた乗用車である。型式はAISH型。耐久性を重視した前後固定車軸仕様ではあったが、1952年当時の日本製乗用車としては最大級の1,500ccエンジンを搭載した上級セダンとして開発され、電気自動車業界から転じたプリンスのガソリン車分野への地歩を築いたモデルである。なお、1956年(昭和31年)4月には、前輪独立懸架の「プリンス・セダン・スペシャル」(型式はAMSH型)も追加発売されている。電気自動車メーカーであったたま自動車が1952年3月、初のガソリン自動車として販売を開始。その年の皇太子(今上天皇)の立太子の礼にちなんで、同時発売のAFTF型トラックとともに「プリンス」を名乗った、1,500cc級の4ドアセダンである。後に社名もプリンスを名乗るようになった。エンジン開発・製造は旧中島飛行機系の富士精密工業によるもの。乗用車専用設計のシャーシを新たに開発し、日本でも先例の少ないコラムシフト方式採用で6人乗りを実現、4段変速機は2速以上をシンクロナイザー付とした。国産乗用車の市場で日産自動車が860cc・25PSのダットサン、トヨタ自動車工業が1000cc・27PSのトヨペットを主力商品としていた当時、プリンスは1500cc・45PSの性能で競合他社を圧した。この結果、トヨタは新型1,500cc級エンジン「R型」投入を急ぎ、日産・いすゞは国外メーカー提携による1000cc超の中型セダン国産化に邁進することになる。当時のたま自動車の設計スタッフは僅か10名程度であり、技術課の課長は田中次郎、そしてその下で具体的にプリンス・セダンの設計を取りまとめたのは、課長代理の日村卓也である。なお、日村は、桜井眞一郎がたま自動車に採用された時の直属上司である。後継車種は1957年発売の初代スカイライン(ALSI型)である。プリンス・セダンが発売されるまでに、旧立川飛行機の流れを汲むたま自動車では、終戦後のガソリン統制のために、各種電気自動車を製造・販売してきた。ところが、1950年(昭和25年)6月25日勃発の朝鮮戦争により、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によるガソリンの統制が解除され、比較的容易に購入できるようになり、逆にバッテリー原料の一つである鉛の価格が、最終的には約10倍に高騰した。このため電気自動車は日本市場での優位性を喪失し、たま電気自動車ではガソリン・エンジン車の製造・販売に活路を見出すこととなった。その結果生まれたのが、このプリンス・セダン(AISH型)と、同時発売のプリンス・トラック(AFTF型)である。1956年(昭和31年)6月、プリンス・セダンを基にした商用車である、プリンス・コマーシャルバン(AIVE-I型)とプリンス・コマーシャルピックアップ(AIPC-I型)が発売された。ここでの「ピックアップ」とは、日産のダットサン・トラックの車種の呼称と同様、前後2列の座席を持つトラックを指す、ダブルピックアップのことである。これらは、それまで発売されていたプリンス・ライトバン(AFVB型)や、プリンス・ピックアップ(AFPB型)が、プリンス・トラック(AFTF型)を基にしたトラック・ベースの車両であるのとは違い、純然たる乗用車(セダンAISH型)ベースのライトバンとトラックである。乗用車ベースの商用車としては、他社でもすでに日産自動車のダットサン110型セダンを基にしたダットサン・トラック120系(1955年=昭和30年1月発売)や、トヨタ自動車のトヨペット・マスター(RR型)を基にした初代トヨペット・マスターラインRR10系(1955年=昭和30年12月発売)が登場していた。コマーシャルバンAIVE型と、コマーシャルピックアップAIPC型は、初代スカイラインALSI型の派生型で商用車版であるスカイウェイ・ライトバン(ALVG型)と、同じくピックアップ(ALPE型)に、1959年(昭和34年)4月に交代した。つまり、プリンスとしては、初代スカイラインALSI型が先代プリンス・セダンと交代してから2年間近く、乗用車ベースの商用車に限っては、プリンス・セダンを基にしたライトバンとピックアップが継続販売されていた事になる。よって、プリンス・セダン系列の車両は、延べ7年間の命脈を保ったことになる。1952年(昭和27年)10月に、後にスカイラインの開発責任者となる桜井眞一郎がたま自動車に入社したが、最初に上司(設計課長代理)の日村卓也から命ぜられた仕事は、プリンス・セダンのコラムシフトのシャフトの設計変更だった。その頃、プリンス・セダンのコラムシフトのシャフトが折れる不具合が多発していた。日村は、折れるのは強度不足のせいだから、シャフトを太くすればいいと主張し、新人で部下の桜井は、細くしてしなりを持たせればいいと主張。両者は譲らず、しかも課長代理と新人では当然後者が引き下がるべきところではあったが、桜井は、自分で分析して出した結論に自信を持っていたので、もし自分が間違っていたのならクビになってもいいやと開き直ることにし、細い対策品を作って試したところ、ピタリとシャフト折れの不具合は止んだ。これにより、元々桜井を「将来モノになるだろう」とふんでいた日村は、益々桜井を認めるようになったという。桜井は生前、プリンス時代の最も尊敬する上司として、中川良一と、日村の二名を挙げていた。1952年(昭和27年)11月に、日本交通で大量にプリンス・セダンを採用した。すると、サスペンションのばねのゴム製ブッシュ(たま/プリンスの会長の石橋正二郎が社主であったブリヂストン製)が破れるという不具合が多発した。そこで、入社後、設計課長代理日村卓也からサスペンション担当を命じられていた桜井眞一郎は、毎日のように市谷の日本交通のタクシーの溜まり場に行き、タクシーの運転手らに叱られながら部品交換を行った。桜井は、上手にブッシュを抜ける工具まで自作して対応したが、根本的な対策をするために、自らゴムの勉強を開始した。桜井は四日市市の東海護謨工業(のちに東海ゴム工業、現在の住友理工)に毎月一回夜行列車で通い、同社の小林雄二という人物に話を持ち掛け、二年間二人とも無報酬で研究し、何とか破れないラバーブッシュを完成させ、それが自動車の防振技術に寄与した。当初東海ゴムではブリヂストンに対する気兼ねがあったが、これを機にプリンスは東海ゴムにだけはゴム部品を発注できることになったという。
出典:wikipedia
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