宗 重遠(そう しげとお、1848年6月11日(嘉永元年5月11日) - 1930年(昭和5年)3月10日)は、日本の武士(久留米藩士)、剣術家(津田一伝流、大日本武徳会剣道範士)。久留米藩士・宗秀次郎の二男として出生。はじめ小源太あるいは栄と称した。幼少時より津田一伝流開祖津田正之に入門して剣を学び、17歳で免許を得る。幕末期には藩命により京都御所守衛のために上京、また久留米では常備隊の半隊長を務めた。廃藩後は剣を捨て、1886年(明治19年)から1909年(明治42年)までは地方行政に貢献し、浮羽郡会議員、吉井町町長、椿子村浮羽村組合村長などを歴任した。後年は剣に復帰し、1921年(大正10年)9月には大日本武徳会から剣道範士号を授与され、天覧試合の栄を受けた。大日本武徳会の試合では門奈正と中山博道に「最も難しい相手だった」と言わしめた。また、学校や軍隊などにおいて剣道の指導に当たった。1923年(大正12年)、東京府在住の長男宅に隠居。1930年(昭和5年)3月10日没、享年83。墓所は横浜市鶴見区の總持寺にある。筑後宗氏は武藤資頼の末裔であり、対馬藩主・宗氏と同族である。元禄年間に宗政盛(1640年 - 1703年)が久留米藩第4代藩主有馬頼元に召し抱えられて武家礼法と武術の指南にあたり、宗家は以後代々久留米藩に仕えた。父の秀次郎(盛興、1814年 - 1872年)も弓馬の術に通じた。兄の小次郎(弘毅、1845年 - 1903年)は幕末に応変隊参謀などを務め、維新後は御井郡など各郡の郡長を歴任、官吏として山梨県などに赴任した。妻は久留米藩士喜多村弥六(吉尚)の娘フサ。子は5男1女。長男の正路(1883年 - 1962年)は電気・無線電信の研究者であり、東京電気株式会社(現・東芝)取締役を務めたのち、宗電子工業株式会社を創業した。三男の小柳貫之(1891年 - 1944年)は京都帝国大学や第三高等学校で剣道師範となった。孫の宗道臣は少林寺拳法の創始者である。
出典:wikipedia
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