水野 忠精(みずの ただきよ、天保3年12月16日(1833年2月5日)- 明治17年(1884年)5月8日)は、江戸時代後期・末期の大名、老中。遠江浜松藩第2代藩主、出羽山形藩初代藩主。忠元系水野家第12代。天保の改革を行なった老中・水野忠邦の長男。正室は浜松藩主・井上正春の娘。子に忠弘(長男)、忠美(六男)、娘(奥平昌邁正室のち日下義雄室)、娘(井上正英室のち辰馬某室)。養女に戸田忠温の娘(水野忠幹継室)。官位は従四位下、大監物、和泉守、侍従。幼名は金五郎。名は忠精のほか、忠良、忠経。父・忠邦が天保の改革に失敗して隠居したため、家督を継いだ。弘化2年(1845年)、遠江浜松藩から出羽山形藩に移封されるが、これは父の失脚に伴う左遷である。その後、寺社奉行、若年寄などを歴任し、文久2年(1862年)には老中となった。老中在任中は横須賀造船所の建設を推進したともされる。慶応2年(1866年)に長男・忠弘に家督を譲っている。明治17年(1884年)52歳で死去した。※日付=旧暦
出典:wikipedia
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