


日吉町吉利(ひよしちょうよしとし Hiyoshi-Chō Yoshitoshi)は、鹿児島県日置市の大字。旧日置郡吉利郷吉利村、日置郡吉利村大字吉利、日置郡日吉町吉利。人口は1,361人、世帯数は585世帯(2010年10月1日現在)。郵便番号は899-3203。文禄期から江戸時代末期まで現在の字域にあたる吉利郷吉利村は文禄期に禰寝(根占)郷(現在の錦江町大根占地域及び南大隅町小根占地域)から、一族・家臣ともども移封された禰寝氏(根占とも。後の小松氏)の領地であった。禰寝(根占)・小松氏の当主のなかには維新の十傑の一人小松清廉(帯刀)がいる。禰寝と根占の字は清廉の日記でも併用されている。日置市の西部、大川の下流域に位置している。字域の北方には日置市日吉町日置、南方には日置市吹上町永吉、東方には日置市伊集院町古城、日置市伊集院町飯牟礼、鹿児島市入佐町がそれぞれ隣接しており、西方には東シナ海に面している。西部には吹上浜の砂丘が南北に広がっており、周辺には防砂林が多く所在している。付近には国道270号が南北に通っており、日置市立吉利小学校が所在している。以前は鹿児島交通枕崎線が南北に通っており、中央部には吉利駅が所在していたが、1984年(昭和59年)に廃止された。線路跡は廃止後に自転車道となり、鹿児島県道加世田日吉自転車道線となった。東方には鹿児島県道35号永吉入佐鹿児島線が通り、その沿線に日置市立扇尾小学校が所在している。また、字域の北部にある園林寺跡には小松重春までの歴代の禰寝氏(根占・小松氏)の歴代領主の墓があり、その中には経済に辣腕をふるった禰寝清雄、小松氏に名字を改めた最初の人物小松清香、最も著名な小松清廉(小松帯刀)の墓が立つ。彼らはすべて薩摩藩家老職を務めている。また園林寺跡は日置市の指定文化財に指定されている。吉利という地名は鎌倉期より見え、薩摩国日置北郷のうちであり、名田名であった。元享4年に日置北郷は伊作荘(現在の日置市吹上地域)とともに下地中分が行われ、南は地頭分、北は領家分とされた。嘉暦2年の島津道恵譲状により一部が島津久氏に与えられた。文禄4年に島津義久は豊臣秀吉の命により根占七郎(根占重虎[重張]とも史料に出ず)を旧領である根占院(現在の肝属郡錦江町大根占地域及び肝属郡南大隅町小根占地域)から吉利村へ移封した。根占七郎は根占氏直系の最後の殿様であった。あとは島津一族がこの本家を引き継いだ。そしてさらに根占氏(禰寝氏)直系は名字を小松氏と改め、小松氏は江戸期、私領として当地を治めることとなる。江戸期には薩摩国日置郡吉利郷(外城)のうちであり、吉利郷は吉利村のみの1村で構成されていた。村高は「天保郷帳」では3,137石余、「旧高旧領」では2,123石余であった。元禄頃に吉利の領主であった禰寝清雄が広島より麻を移植し、吉利では麻糸生産や製網などが行われ薩南方面では村の面積の小ささに比べて人口が多かったとされる。1889年(明治22年)に町村制が施行されたのに伴い、吉利郷の区域より吉利村が成立し、江戸期の吉利村は吉利村唯一の大字「吉利」となった。1955年(昭和30年)には吉利村が日置村、下伊集院村大字神之川の一部と合併し、日吉町が成立し、日吉町の大字「吉利」となった。2000年(平成12年)に日置字六枝及び井神の各一部を吉利字石町に編入し、吉利字六枝、春日、瀬戸口及び井神の各一部を吉利字南天牟田に編入した。2001年(平成13年)に吉利字春ヶ迫の一部が松元町大字入佐字平木場の一部となり、松元町大字入佐字平木場の一部を吉利字春ヶ迫の一部に編入した。2005年(平成17年)に日吉町が伊集院町、吹上町、東市来町と合併し日置市の大字「日吉町吉利」に改称した。市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる
出典:wikipedia
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