


高野 常道(たかの つねみち、享保14年(1729年) - 文化12年2月13日(1815年3月23日))は、越後長岡藩の儒臣。通称は泰助。諱は常道。号は余慶。一般的には高野余慶として知られる。やはり越後長岡藩士で儒臣であった高野永貞(栄軒)の長子として生まれる。常道は、伊藤仁斎を私淑し、兵法に通じ、旧典に詳しかったという。藩主牧野忠寛に信任され、忠寛の2子牧野忠精と牧野忠義(後の有馬氏保)の侍読となる。以降牧野忠精に近侍した。常道の人物は、松平定信より「泰助(常道の通称)は君子なり」と称えられるほどであったとされる。藩主に46年仕えたうちの24年は江戸勤番であった。隠居後も、常に四書五経を講じ、兵書古礼を説き、馬術、水練、弓術、砲術などを究めたという。『由旧録』『軍用家訓』『軍中職掌考』その他多数の著作がある。常道の著であるとされる『昇平夜話』に見える、「東照宮上意に、郷村の百姓共は死なぬ様に、生ぬ様にと合点致し、収納申付様にとの上意」とのくだりは、『本佐録』の「百姓は財の余らぬ様に、不足なき様に治むること道なり」と共に、江戸幕府の農民政策を示したものとして知られる。文化12年(1815年)2月13日、87歳で病没。墓は現在の新潟県長岡市西新町に所在する長福寺。
出典:wikipedia
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