


遠隔操縦器材い号とは、大日本帝国陸軍が開発した、有線操縦可能な電動の作業機を用いてトーチカや鉄条網などの防御構造物の爆破を行う器材の総称である。い号装置とも呼ばれるが、い号とは有線(いうせん)の頭文字を取ったものである。爆破には、九七式小作業機、九八式小作業機と呼ばれる、電動車に作業機を搭載した車輛を、後方の操縦陣地から駆動させる。同様の無人爆破車輛としてドイツ軍の開発したゴリアテがあるが、直接の技術の交流などは無い。い号は単独の車輛(小作業機)だけで成り立つものではなく、発電車、電動車、作業機、操縦器といったものをそれぞれ操作して戦場に投入するものである。発電車によって電気を起こし、これをケーブルを介して電動車と、電動車に搭載された作業機を駆動させる。後方に待機している操縦者がこれを操作し、目標まで走行させ、爆破や爆発物のセットといった作業を行う。各種作業機は、用途に応じた作業を無人で行えるもので、電動車は用途に応じてこの作業機を乗せ換える。電動車は単に爆破によって使い捨てにされるようなものではなく、搭載した作業機によって爆薬を投下、あるいは鉄条網の下部へ爆破管を挿入させて退避する。戦況が許す限り作業機と電動車は後方の陣地へ帰還させた。い号の主要な構成は以下の通りである。い号は一個小隊で戦場に投入される。小隊は操縦三分隊と発電一分隊から構成される。通常の戦術は、この分隊を並列に配置し、連携しつつ小作業機を侵入させ、一つの目標を攻撃するものである。陣地攻撃、鉄条網爆破、偵察などの用途に応じてそれぞれの分隊の装備が決定される。最後方には発電車が位置し、分電匡を介して全ての電動車に電力を分配供給した。二重の鉄条網で防御されたトーチカを排除する場合、第一分隊は一線の鉄条網の爆破、第二分隊は二線の鉄条網の爆破、第三分隊はトーチカの爆破を担当する。このための装備として第一分隊は電動車甲2台に一号作業機を準備し、第二分隊は電動車甲2台と二号作業機を準備する。第三分隊は電動車乙2台と爆薬300kgを搭載した三号作業機を用意する。電動車のうち1台は予備車である。これらの分隊は、それぞれ目標から200mないし500m程度離れた、周囲の射線から遮蔽された場所に布陣し、電動車を展開させる場所も十分に遮蔽物がある場所を選定する。操縦地点は前方の地形が観察できるところを選び、潜望鏡で観察しながら電動車を誘導する。電動車は十分偽装した上で敵陣へ進入させる。作業が失敗した際には予備車を投入した。電動車の運動性は良好で、また電動車輛の長所としてほとんど音を発生しない。第一分隊の電動車は鉄条網に爆破管を押しこんで退避し、第一線の鉄条網を爆破する。第二分隊の作業機は集団装薬を投下して退避し、二線鉄条網を爆破する。第三分隊の電動車はここから侵入し、トーチカへ肉薄して300kgの爆薬を投下、退避する。300kgの爆薬の爆発はトーチカを粉砕する非常な威力を持ち、半径50m以内の草木が全て吹き飛ばされた。電気の供給減から距離が離れるほど、ケーブル内での電圧降下により、電動車の運動性能は低下した。操縦可能な距離は通常1,000mまでとされたが、平坦で理想的な地形の場合は1,500mまで可能であった。1931年、満州事変が勃発し、以後日本軍は中華民国との戦闘で陣地攻撃や鉄条網の排除などを行った。日本軍はこれら防御構造物の排除に際して工兵または歩兵の肉弾攻撃を行ったが、被害に比して効果は少なかった。1932年の上海事変では爆弾三勇士の事例が生じ、肉弾戦法に変わる特殊兵器が必要とされた。この兵器の研究は科学研究所第一部が担当し、1932年(昭和7年)から1938年(昭和13年)にかけて開発を行った。研究開始当初、いかに爆破物を安全に目標へ運搬するかにつき、様々な方法が検討された。結果、電動モーターを搭載した小型の装軌車輛を、後方からケーブルを介して有線操縦する案が提出された。無線操縦方式も検討されたが、細かい操縦には有線誘導が有利であったため不採用となった。昭和7年に設計された車輛は、発動機として小型のガソリンエンジンを搭載した4輪車だった。動力は後輪に伝えられ、車体を駆動させた。ステアリングは前車輪の輪軸を電磁石によって操向し、操作した。昭和9年、発動機を廃止し、電動機を2台搭載した装軌式の車輛が設計された。有線操縦を実用化するにあたっての欠点は、電動車がケーブルをひきずっていかなければならない点であった。多芯構造のケーブルは引張り強度と絶縁能力を持たなければならないが、しかし同時に、電動車が長く繰り出されるケーブルを引きずる際の荷重を減らすため、できるかぎり軽量化しなくてはならなかった。最も多い故障はケーブルと接続器に生じた。ケーブルと電動車をつなぐ接続器に衝撃が加わると、心線の離脱が生じた。ケーブル本体も張力や摩擦に耐えるほか、屈曲や衝撃に強いことが求められた。試作車は電流の流量を調整すればモーターの回転数が変わり、車輛を操向することができた。またこの試作車は、電動機のプラスとマイナスを入れ替えることで後進が可能だった。この設計の様式は基本的なものとして以後のい号の電動車に引き継がれた。以後、足まわりに用いられる懸架装置や減速装置、履帯、また操縦器、ケーブル、巻取車、継電器に順次改良が加えられた。作業機の用途は鉄条網や特火点の爆破、煙幕の展開、架橋、火焔放射、火器搭載、防楯を搭載しての偵察、資材運搬などが考慮され、用途に沿って試作研究がすすめられた。昭和11年に八心電纜を四心電纜へ改良する試みがおこなわれた。ケーブル内の心線を少なくすると、電線の径が小さくなり、繰り出されるケーブル重量や引きずる荷重も減り、故障の原因が排除された。この改善は操縦器、継電器、回路を改良することによって成功した。改良による電動車の操作の変更はなく、強度、重量の軽減の問題を解決した。昭和12年には有線操縦を行うための最終案が作成された。これに基づいて昭和13年に第一次整備が始められた。また演習が宮城県王城寺原と青森県山田野で実施された。陸軍は、この装置を製作する上で必要な部品を外注する場合、別々の製造社を選び、装置の内容の機密保持に努めた。昭和14年春、この兵器を専門に取り扱うための人員の教育が開始された。まず内地で人員を教育し、次に満州のチチハルで幹部要員が教育された。昭和14年の冬季には専修員たちがハイラル地区へ移動し、夜間の鉄条網攻撃、払暁の特火点攻撃など、実戦を想定した演習を行った。演習の結果、部隊には防御側からの機銃による被害がほとんど生まれず、有効な攻撃が確実に行えることが確認された。兵器の整備は昭和13年から昭和14年にかけて行われた。取得は第一次から第四次まで順次配備された。昭和15年8月には満州の公主嶺で独立工兵第二七連隊が編成された。これは関東軍司令官直属であり、満州の東部国境付近に配置され、1945年4月に内地に移り終戦を迎えた。部隊が編成されたために研究は一つの区切りを迎えた。ただし、研究は陸上用から河川用のものへと移り、水際障害物を破壊するための有線誘導方式の兵器が研究され、昭和15年に完成した。い号装置は独立工兵第二七連隊が装備したが、実戦に投入されることはなかった。二七連隊は東満州国境の厳重な陣地を破壊突破するための訓練を重ねていたが、昭和20年4月に内地防衛のため本土へ移動した。その後、部隊は関東の鹿島灘周辺に展開したが、敗戦後の8月30日に部隊を解散するよう方面軍から指示が下された。装備機材は周辺の広場、森林などに集積された上で焼却処分、あるいは爆破処分された。その後、車輛類は埋めるか、または利根川に小作業機を投棄した。戦後の米軍はこの器材に強い関心を持ち、利根川から小作業機の残骸を回収、調査した。電動車の総生産数は甲乙合わせて約300輌である。
出典:wikipedia
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