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福原元たけ

福原 元(ふくばら もとたけ)は、江戸時代末期(幕末期)の武士。長州藩の永代家老。福原越後の名で知られている。長州藩支藩である周防徳山藩主・毛利広鎮の六男。文化12年(1815年)生まれ。六男であるために家督を継ぐことはできず、12歳の頃に長州藩寄組・佐世親長(益田就恭の実弟)の養子となる。「元」の字はこの頃の藩主・毛利斉元(在任:1824年 - 1836年)から偏諱を受けたものと推測される。嘉永4年(1851年)、家老に昇進するが、大名の子の養子先としては家格が低すぎることから、安政5年(1858年)に藩命で長州藩で代々家老職を継ぐ家柄の福原親俊(伯父・福原房純の孫)の家督を継承した。万延元年(1860年)に国家老として藩主・毛利慶親(斉元の子、後の敬親)を補佐し、尊王攘夷運動を推進する。文久3年(1863年)に廃止された最後の当職(財務を統括する家老職)を務めており、当職廃止後も加判役として藩政の中枢に残った。後述の長州軍上洛に至る政務において、どのような権限を持ち政務を行ったかは定かでは無いものの、在職期間から考えて、航海遠略策の進言・藩是転換(奉勅攘夷・破約攘夷の提案・実行)などの政策で責任者のひとりであった可能性が高い。同年、八月十八日の政変で長州藩が京都から追放されると、元治元年(1864年)に来島又兵衛や久坂玄瑞らと協力して挙兵し、上京して禁門の変を引き起こした。元は伏見長州藩邸に布陣した長州藩主力軍の総大将として伏見街道を進むが、途中で交戦した大垣藩勢の銃撃で負傷、敗退して帰国した。その後、幕府による第1次長州征伐が起こると、藩内では保守派である俗論党が主導権を掌握してしまう。元は禁門の変で敗れて逃げ戻ったという経緯があったため、保守派の意向に逆らうことができず、西郷隆盛の要求により国司親相・益田兼施と共に禁門の変、並びに長州征伐の責任を取る形で、同年中に岩国の龍護寺で自害した(享年50)。首級は他の家老らの共に幕府側に送られた。辞世の句:くるしさは 絶ゆるわが身の夕煙 空に立つ名は 捨てがてにする慶応2年(1866年)8月に罪状焼棄の命が下り、藩主に背いた不忠不義との汚名は破棄され、11月に完成した維新招魂社(現・宇部護国神社)の主神として遷座された。養嗣子は福原姓を憚って鈴尾五郎(後に毛利敬親の1字を受けて鈴尾親徳)と名乗ったが、後に復姓して福原良通と名乗った。また、佐世家に養子へ出された時に側室との間に実子彦七が生まれ、文久2年(1862年)に彦七と井上馨の妹孝子との間に孫栄太郎が誕生した。栄太郎は母方の伯父馨の庇護を受け慶應義塾へ入学、三井物産へ就職して明治34年(1901年)頃に小野田セメント社長になった。元については、昭和期に周防大島町出身の画家・中村青田によって作られたとされる木像が知られていたが、平成25年(2013年)に防府市の毛利博物館で肖像画が発見され、明治45年/大正元年(1912年)までに同博物館に預けられたとみられることから、前述の木像の元になった可能性が指摘されている。その他、地元彫刻家によって作られた銅像が、宇部護国神社に平成22年(2010年)に建てられた。寡黙で果断、温厚でもあり、幕末初期の長州藩政を見事に運営した名臣として、高く評価されている。毛利博物館には元が描いたとされる郭公の絵が残されている。元治元年に藩兵を率いて上洛する直前に描かれたこの絵には、太平記で楠木正成が登場する一節と思われる文が書写されている。湊川の戦いで敗死した楠木正成は、事前に勝ち目が無いことを悟っていた(桜井の別れ)とされることから、長州軍の挙兵・上洛が成功するかどうか疑問視していたとの見方もある。

出典:wikipedia

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