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慶長地震

慶長地震(けいちょうじしん)は、江戸時代初期の1605年2月3日(慶長9年12月16日)に起こった地震である。震源については諸説があり、南海沖(南海トラフ)単独地震説と南海沖と房総沖の連動地震説、遠地地震説など。津波被害による溺死者は約5,000人(1万人という説もある)だが、地震による陸地の揺れが小さいのが特徴である。また震源や被害規模も不明な点が多い。以上のことから津波を想起させる大きな地震動が発生しない津波地震であったとされ、同様の地震が将来発生した場合に避難が遅れ大きな被害が出る可能性があり、問題となっている。震源は徳島県沖と房総沖の2ヶ所との見方もある。『房総治乱記』には「慶長六年辛丑十二月十六日大地震、山崩海埋テ岳トナル」とあり、年号の相違はあるも誤記と考え、この房総半島の記録は本地震によるものとされる。京都で地震が有感であったとされる記録は『当代記』「十六日亥刻、丑寅の方ニ魂打三度、同地震」が1件あるだけで、地震動後に津波被害を受ける地域の地震記録は少ない。しかし、『当代記』については『日本被害地震総覧』は京都の有感記事としているが、日記にある前後の天候などの記事から『当代記』は京都の状況を記述したものではないとされる。また、『義演准后日記』には「旧冬十五日〔ママ〕武蔵国江戸辺大地震由注進候、此辺不覚、誠聊震歟」とあり、こちらは京都では有感でなかったことを示唆する史料とされる。『孝亮宿禰日次記』には「近日関東大地震有之、死人等多云々、又伊勢国、紫国等有大地震云々、」とあり、関東や伊勢の状況が伝えられ大地震があったことを示唆しているが、「紫国」は筑紫国であるか不明であり恐らく四国の状況が伝えられたものとされる。『田原町史』には戸田尊次が田原藩に封ぜられた後に、田原城の櫓や石垣が大坂の陣の前年の大地震によりゆり崩されたと記録されているが、これを大坂の陣の前の年と解釈し慶長地震による震害とする見方もある。『円頓寺旧記』およびその写本である『永正九年八月四日・慶長九年十二月十六日・宝永四年十月四日・嘉永七寅年十一月五日四ヶ度之震潮記』、『宍喰浦旧記』によれば、徳島県宍喰では予兆と見られる大地震が16日辰半刻(朝8時頃)から申上刻(午後3時)くらいまで続き、また井戸が干上がり、酉上刻(午後5時頃)の月の出頃から海底より大波が湧き出し泉から水が吹出したとされる。『宍喰浦旧記』には「地裂沼水湧出」と記述され、地割れが発生して水が噴出したと解釈される。顕著な震害としては『淡路草』に淡路島安坂村の先山千光寺の諸堂が倒壊、仏像が飛散した記録がある。しかし、本地震における淡路島周辺の地震動による被害記録が乏しく、むしろ『淡路草』の記録は年号の誤記と考え、先山千光寺の記録は1596年の慶長伏見地震の被害状況である可能性もあるとされる。津波は夕方から夜にかけて、犬吠埼から九州に至る太平洋岸に押し寄せた。津波襲来の範囲は宝永地震に匹敵するが、後の元禄地震津波や宝永地震津波によって多くの史料が流失したものと推定され、また紀州徳川家や土佐山内家らが移封される前後であったなどの世情から、現存が確認される歴史記録は乏しい。八丈島の遡上高は季節風による大波に津波が重なったものであるとする見方もある。南海トラフ巨大地震とされる宝永地震、安政地震および昭和地震などで見られた南東上りの地殻変動を示唆する記録や温泉の湧出停止などの記録は確認されず、土佐湾西部で宝永津浪が著しいのに対し、室戸岬付近では慶長津波が宝永津波を上回るのは、宝永地震における高知、土佐湾西岸の沈降と室戸岬付近の隆起に対し、慶長地震では地殻変動が小さかったことも関連していると推定される。震動および津波に関する伝承記録から解析し南海トラフを主震源域として駿河トラフ、相模トラフなどどの領域が連動したのか、いくつかの見解がある。また、東北地方太平洋沖地震の知見を踏まえ、弱い震動と大きな津波の発生理由として海溝軸付近でのすべり量を大きく見積もる研究がある。また、泡と発光現象を説明するため、南海トラフの海底にあるメタンハイドレートが連鎖的に気化したと考える説がある。今村明恒(1943)は、軍記による房総半島の被害記録に重きを置くわけには行かないとして、大森房吉(1913)の唱えた房総沖説を否定して東海道沖および南海道沖に震源を仮定し、津波を宝永地震や安政地震と同類のものと考えた。ただし、安政地震のような二元地震ではないであろうとしている。石橋克彦(1983)は、本地震は震源域が宝永地震とほぼ同じ南海トラフ沿いにあり、系列が異なる津波地震であるという仮説を立てた 。1586年の天正地震によってアムールプレート(ユーラシアプレート)の東進が進み、その結果中央構造線沿いで横ずれ応力が増大して1596年の伏見地震など一連の地震活動をもたらし、南海トラフのプレート境界の応力状態が緩和されて、やや低い応力レベルで滑りの遅い津波地震が発生したとの見方もある。飯田汲事(1981)は、震度分布や津波記録が志摩半島以東と、紀伊半島西部から四国の2地域に分類されるとし、東海沖と南海沖の二元地震としている。宇佐美龍夫(2003)も、震央位置を(1) 北緯 33.5° 東経 138.5° (2) 北緯 33.0° 東経 134.9°に仮定し、東海沖(1)と南海沖(2)の2つの地震が生じたものとしている。東京大学の古村孝志は、強震動と地殻変動の記録が残っていない事などから南海トラフ沿いプレート境界の海溝軸に近い浅い地域の地震だったとしている。名古屋大学の安藤雅孝は、宝永地震や安政地震と同じ断層面でゆっくり滑りが発生したとは考えにくいとの指摘もあることから、メタンハイドレートの介在の可能性を指摘している。河角廣(1951)は、房総半島南東沖(N34.3°,E140.4°)と紀伊半島南西沖(N33°,E134.9°)の2つの震央を与え、それぞれ"M" = 6としてマグニチュード "M" = 7.9の2つの地震と考え、羽鳥徳太郎(1975)も、地震動や津波の記録が一つの震源では説明できないとし、房総南東沖と紀伊半島南西沖に2つの津波の波源域を推定した。相田勇(1981)は、古記録を基にした津波の数値実験から東海沖と房総沖の相模トラフ沿いの二つの断層による波源域を仮定し、房総沖の断層は地震モーメント"M" = 5.3×10N・m ("M"w = 8.4)、東海沖は"M" = 6.4×10N・m ("M"w = 8.5)と推定しているが、歴史記録が乏しく近似の程度は余り良くないとされる。但し、この断層モデルには南海道沖の震源域は含まれていない。西日本の南海トラフ沿いに強震動が及ばなかった事を重要視した説である。津波が広い範囲に及びながら確かな震害の記録がないことから、東海はるか沖、あるいは遠地津波も否定できないとする見方もある。瀬野徹三(2011)は、慶長地震はいわゆる津波地震であって、プレート境界のまともな脆性剪断破壊ではない可能性が大きいとして、南海トラフにおける巨大地震の一つとして含めることは出来ないとしている。大森房吉(1913)は、本地震による津波は広範に及ぶものの、八丈島と房総半島東岸の津波が殊に甚だしいため、震源は元禄地震に近い房総沖近傍にあると考えた。都司嘉宣は、この地震は関東で揺れの記録が見られるものの、駿河、遠江、三河、伊勢など東海地方で確実な揺れの記録が皆無であるとして、史料事実から慶長東海地震は無かったとし、東海地震では無く南関東沖地震としている。2013年10月の地震学会で、石橋克彦・原田智也らは、慶長地震が南海トラフのプレート境界型地震ではなく伊豆・小笠原海溝の一部(鳥島付近100km四方前後)のM8.2-8.4の地震を仮定すると津波の再現ができるとした。松浦律子(2013)も慶長地震は震源が南海トラフではないとし、地震動の記録は戦乱の中記録が正確に伝わらなかった可能性もあり、例えばインドネシアやパプアニューギニア島北方、フィリピン等で起きた地震による遠地津波の可能性も否定できないとした。南海トラフの地震が100年に1回という先入観に捕われるのではなく、昭和地震は例外として南海トラフ巨大地震は200年に一度程度の発生が本来の姿だとした。従来想定されている南海トラフ沿いの地震とはメカニズムが異なるため、将来の活動は予測できていない。津波地震という性質のため、三陸津波・チリ地震津波などと同じく、予兆なく津波が襲来した場合の被害は想定以上のものとなる可能性もある。津波から約8ヶ月半後の1605年10月27日(慶長10年9月15日)に八丈島西山で、約11ヶ月半後の1606年1月23日(慶長10年12月15日)に八丈島付近の海底で噴火が発生した。

出典:wikipedia

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