波多野 義常(はたの よしつね)は、平安時代末期の相模国波多野荘(現神奈川県秦野市)の武将。波多野氏の一族。父は波多野義通。父義通は保元の乱で源義朝に従い、義常の叔母が義朝の側室となって次男朝長を産むなど、河内源氏との関係が深かったが、父義通は保元3年(1158年)、義朝と不和となっている。義常は平治元年(1159年)の平治の乱後、京に出仕して右馬允の官職を得て、相模国の有力者となる。治承4年(1180年)7月、義朝の遺児源頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、参向を求められるが、義常はそれを拒否して暴言を吐いたという。同年10月、南関東を制圧した頼朝から誅伐の討手が差し向けられると、討手の下河辺行平らが到着する前に本拠地の松田郷で自害した。義常の嫡男有常は、義常の自害後囚人となるが、文治4年(1188年)に許されて鎌倉幕府御家人となっている。
出典:wikipedia
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