安政東海地震(あんせいとうかいじしん)は、江戸時代後期の嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に発生した東海地震である。ここでいう「東海地震」とは南海トラフ東側半分の東海道沖が震源域となる地震のことであり、東南海地震の領域も本地震の震源域に含まれていた。また、南海トラフ巨大地震の一つであり、約32時間後に発生した安政南海地震とともに安政地震、あるいは安政大地震とも総称される。この地震は嘉永年間末に起きたが、この天変地異や前年の黒船来航を期に改元されて安政と改められ、歴史年表上では安政元年であることから安政を冠して呼ばれる。当時は寅の大変(とらのたいへん)とも呼ばれた。本項では、同時に起きた東南海地震の震源域も含めて記述する。安政南海地震の2日後には豊予海峡で"M" 7.4の豊予海峡地震が発生。また翌年には安政江戸地震("M" 6.9-7.1)が起きた。本地震や安政南海地震は安政江戸地震と合わせて「安政三大地震」とも呼ばれ、伊賀上野地震から1858年飛越地震までの安政年間に多発した一連の大地震を安政の大地震とも呼ぶ。江戸時代には南海トラフ沿いを震源とする巨大地震として、この他に慶長9年(1605年)に起きた慶長地震、および宝永4年(1707年)の宝永地震の記録がある。嘉永七年甲寅十一月四日己巳の辰下刻(五ツ半)(1854年12月23日、日本時間9時過頃)、熊野灘・遠州灘沖から駿河湾を震源(北緯34.0°、東経137.8°)とする巨大地震が起きた。フィリピン海プレートがユーラシアプレート下に沈み込む南海トラフ沿いで起きた海溝型地震と考えられている。ディアナ号の記録では9時15分に突き上げるような海震と思われる震動が2-3分間ほど継続したという。この地震に関する古記録は歴史地震としては非常に多く残されている。安政の頃になると日記に加えて手紙などにも地震の記述が現れるようになり、被災時の人々の詳細な行動記録まで残るようになる。特に、寺院の記録は均質で信頼性のおけるデータとして震度分布の研究などに利用されている。駿河湾岸沿いにおける震害が特に著しく、駿河湾西側および甲府盆地では軒並み震度7と推定されることから震源域は宝永地震よりもさらに駿河湾奥あるいは内陸まで入り込んでいたと推定される。東北南部から中国・四国まで震度4以上の領域が及び、震源域の長さは約300kmと推定される。沼津藩士らによると揺れ始めはそれほど強くなかったが、やがて激震となり地面に腹ばいになっても振るい上げられる程であったという。この初期微動は煙草を四、五服吸うほどの時間であった。被害は関東地方から近畿地方におよび、沼津から伊勢湾岸沿い、特に箱根から見附あたりの東海道筋で家屋倒壊・焼失が著しく、また、甲府盆地も被害が甚大であった。家屋の倒壊は甲斐・信濃・近江・摂津・越前・加賀までおよぶ。火災が比較的少なかった宝永地震に対し、本地震では東海道筋を中心に各地で火災が発生し、信州松本では城下の家が大方潰れ余程の大火となり350軒余焼失した(『続地震雑纂』)。東海道宿場町の震害は三島宿から白須賀あたりまで軒並み「丸崩」「丸焼」となり、特に著しかったが、御油宿以西は比較的軽かった(『安政元寅年正月より同卯ノ三月迄御写物』)。地震による地殻変動の結果、御前崎は 0.8 - 1 m 隆起。浜名湖北端・渥美湾岸は沈下し、南東側で隆起、北西の内陸側で沈降の傾動が見られた。また断層の滑り面は海底のみならず内陸にも達し、遠州相良港は3尺余り(約 1 m)隆起し、清水港は隆起により使用不能、相良では沖合い数十間(100 m 前後)が干潟となった。駿河湾西岸は原付近から横須賀湊辺りまでの広い範囲で1m余の隆起が見られた。一方で浜名湖北岸の気賀では沈降により2,800石の地が潮下に没した(『書付留』)。富士川河口付近には岩淵地震山(蒲原地震山)および松岡地震山と呼ばれる西側上がりの変位約一丈余(3m以上)の断層が生じて流路が変化し、その結果蒲原では耕地が増え、一方で東岸では水害に悩まされるようになった。このため蒲原では耕地の増加を歓迎し「地震さん地震さん、また来ておくれ、私の代にもう一度、孫子の代に二度三度」とまで唄われた。このような南東上がりの地殻変動は宝永地震および昭和東南海・南海地震と同様であり、南海トラフ東側においてユーラシアプレートが衝上する低角逆断層のプレート境界型地震であることを示唆している。ただし、宝永地震や昭和東南海地震とは多少様相が異なり、これらの地震では沈降したとされる駿河湾西岸の清水・三保付近は安政東海地震では隆起している。この地震の直後には宝永地震の後に起きた宝永大噴火のような富士山の大規模な噴火はなかったとされるが、小規模な火山活動を示唆するような記録も残されている。駿府において震災による困窮者を対象に行われた粥の炊出しの様子を記録した『大地震御救粥並町方施米差出、其外諸向地震に付聞書一件・駿府士太夫町町頭、萩原四郎兵衛筆記』には安政東海地震の起きた時刻とほぼ同時期に富士山頂に黒い笠雲がかかり、同日に牛ほどの大きさの羽の生えた物体が舞い、八合目付近に多数の火が見られ、17日後の11月21日頃には宝永山より真黒な煙が立上るのが見られたと記録される。さらにその冬の富士山の積雪は春のように少なかったという。安政地震の直前には、1852年から新潟焼山、1853年から有珠山、1854年には阿蘇山が噴火活動している。地震後、1855年には樽前山、1856年には北海道駒ヶ岳および阿蘇山が噴火活動している。河角廣(1951)は規模"M" = 7. を与え、マグニチュードは "M" = 8.4に換算されている。宇佐美龍夫(1970)はこの河角の規模と気象庁マグニチュードの関係を検討し、やはり8.4に近いであろうと推定したが、当時はモーメントマグニチュードという概念は存在せず1960年のチリ地震も"M"8.5とされていた。数値実験から2つの大きな断層モデルが仮定されている。各断層個別のモーメントマグニチュード "M"w は西側からそれぞれ、8.3, 8.1(合計で "M"w = 8.4)と推定されている。この断層モデルは1944年東南海地震の南西側の断層モデルの長さと幅を延長させたものに加えて、駿河湾奥西岸の地殻変動を示唆する史料や、湾内で発生が目撃された津波などから、駿河湾沖にもう一つの断層モデルを置いたものであった。前震とされる地震は、5ヶ月前の1854年7月9日に伊賀上野地震(伊賀・伊勢・大和地震、"M" 7.6)が発生。一方、安政東海・南海地震の余震は2979回も記録され、約9年間続いたという。ただし、翌日の南海地震の余震との区別については判別の方法がない。大きな余震としては以下のものがある。また、本震に影響を受け、震源域および余震域から離れた地域でも規模の大きな誘発地震が発生している。房総半島沿岸から土佐まで激しい津波に見舞われ、伊豆下田から熊野灘までが特に著しかった。波高は甲賀で 10 m、鳥羽で 5 - 6 m、錦浦で 6 m 余、二木島で 9 m、尾鷲で 6 m に達した。津波は駿河湾西側や遠州灘では引き潮から始まったが、伊豆半島沿岸では潮が引くことなく津波の襲来に見舞われた。伊豆半島において昼過ぎまでに何十回となく襲来し、大きな波は3回打寄せ、そのうち第二波が最大であった。志摩半島の国崎では津波特異点となり「常福寺津波流失塔」の碑文には、「潮の高さは城山、坂森山を打ち越えて、彦間にて七丈五尺(22.7 m)に達した」と記されている。波高は全般的に見て特に東海地方東部で昭和東南海地震より高く、宝永地震の東海道沿岸と同程度であるが、志摩半島では局地的に高くなった部分もあった。一方で、明応地震はさらに大規模な津波を発生し特に伊豆半島西岸で著しかった。津波襲来前には各地で大砲を撃つ様な音が聞こえ、『伊豆半島地震史料』には「高天神とか俗称せらるる高峰にて目撃したる話なりと云へるを聞くに、大砲の如き響と共に、海上七八里、瀬の海辺に水煙天に漲り、水面凹となり、大水輪をなして四方に開けるを伝へたり」という記録もある。これは、駿河湾内で海面が山のように盛上がり、崩れるのが海岸から目撃されたとする記録であった。ロシア軍艦ディアナ号の記録では、下田において地震動の後、15 - 20分後に津波が到達し、2回目に押し寄せた津波が5 - 6m(『ハリス日本滞在記』では「その大波は三十呎の高さがあったと云はれてゐた。」)に達し、昼過ぎまでに7 - 8回押し寄せ家屋を流出させた。湾内には大きな渦が生じ停泊中のディアナ号は浸水により何回も回転して大破し、津波が収まった後、修理を試みようと戸田港へ廻航する途中、暴風雨も重なり流されて11月27日(1855年1月15日)20時頃、田子の浦沖で座礁し、漁船でけん引中、12月2日(1855年1月19日)14時頃に沈没した(『下田日記』)。名古屋においては、地震によって河川堤防が決壊したところに津波が河川を遡上し、浸水した。材木426本、船4隻が流失、家4081軒が流失あるいは倒壊、領内田畑440石に汐入り、507石に砂入り荒廃した(『御城書』)。名古屋は、河川が多く、河川遡上が起きやすい構造となっている。伊勢・紀伊では4日、5日両日の津波で田畑計16万8000石余に汐入り荒廃、家2万6608軒が流失、倒壊あるいは焼失、収納米890石、材木15480本、船1455隻、高札場5ヵ所が流失、699人が流死した(『御城書』)。尾鷲(現・尾鷲市)において、往古の宝永津波は地震がおさまってから飯を一鍋炊く時間があり、井戸水が枯れ、潮がすずめ島(約300m沖)まで引いた後襲来したと伝えられてきたが、この度の津波は井戸水が枯れることなく道を五・六町(5-600m)歩く程度の時間で高さ二丈(約6m)の浪が直に襲来し人々を慌てさせたという(『三重県南部災異誌』『大地震津浪記録』)。那智勝浦にもほぼ同様の言い伝えがあった(『新田家過去帳』)。土佐では宇佐(現・土佐市)において「霜月四日朝五ツ時地震海潮進退定まらず」(『眞覚寺日記』)、入野(現・黒潮町)でも「四日昼微々の震動有潮海漘に流れ溢る土俗是を名て鈴波と云う」(『入野加茂神社震災碑』)の記録があり、伊田(現・黒潮町)でも磯辺に干したる物が流された(『小野桃斎筆記』)。豊後の佐伯でも四日朝に軽い地震があり潮が不穏な動きをし、手付見廻方らが警戒しているところに翌日、南海地震が起こり、それに伴う津波が市中の川に流れ込んだ。佐伯では宝永津波被害が酷かったことから、万が一大地震・大津波が発生した場合は大手門を開き、家来や市民らを避難させるよう備えていた(『御用日記』)。小笠原諸島でも津波襲来の記録があり、父島奥村で5mに達し家屋が流失し、大村でも3mと推定される。サンフランシスコにも達し、験潮場において1フィート (30 cm) の津波が観測された。『大日本地震史料』によれば地震および津波の被害は家屋の倒壊流出8300余、消失600、圧死300人、流死300人とされる。しかしこれは地震の規模に対し小さ過ぎるとされ、潰家、焼失家は3万軒、死者は2 - 3千人とする説もある。古記録にはいくつかの前兆と思われる記録も見られ、地殻変動や地震活動の活発化と思われるものもあるが、地震との関連性が不明のものもある。前年の小田原地震によって袖師町(現・静岡市清水区)では海岸が遠浅となり隆起を示唆する記録があり、一方御前崎付近では地震前に浜が次第に壊されていくなど沈降と思われる現象が認められた(『下村家古文書』)。川根(現・牧之原市)では前年から鳴動があり、菊川(現・菊川市)、河城村(現・菊川市)等では数日前から大音響があったという。下田・駿府・四日市・新宮などの東海地方各地では地震直前の朝は一点の雲もない快晴で風もなかった。太陽が黄色に輝いていたともいう。周辺では数年前から中規模地震が続発し、特に半年前からは紀伊半島から伊豆半島にかけて地震活動が高まり、弘化4年3月24日(1847年5月8日)北信地方の善光寺地震 → 同3月29日(1847年5月13日)越後頚城郡の地震 → 嘉永5年12月17日(1853年1月26日)信濃埴科郡の地震 → 嘉永6年2月2日(1853年3月11日)の小田原地震 → 嘉永7年6月15日(1854年7月9日)の伊賀上野地震 → 同7月20日(1854年8月13日)の伊勢の地震 → と東海地震の震央を目指して行った様に見える。一方で震源域付近では、名古屋(『鸚鵡籠中記』)、伊勢(『外宮子良館日記』)および近江八幡(『市田家日記』)で日記に記録された地震回数から、宝永地震および安政地震のそれぞれ数年前から有感地震が減少が窺われ、巨大地震発生前の静穏化現象と推定される。南海トラフ沿いを震源とする地震は90年から150年ごとに東海(E領域、駿河湾沖)、東南海(C, D領域、熊野灘沖、遠州灘沖)、南海(A, B領域、土佐湾沖、紀伊水道沖)の領域でほぼ同時あるいは2年程度の間隔を空けて連動して起きているとされ、この地震の90年後の1944年には昭和東南海地震 ("M"j = 7.9, "M"w = 8.2)(C, D領域)、1946年には昭和南海地震 ("M"j = 8.0, "M"w = 8.4)(A, B領域)が起きたが、これらは南海トラフ沿いの地震としては比較的小規模であり、さらに依然、駿河湾沖の東海地震震源域(E領域)は歪の開放されていない空白域として残され、かつ安政東海地震から年月が経過しているため、日本の大動脈である東海道を直撃する東海地震が今後起きることが想定されている。ただし、東海地震は過去の記録から駿河湾沖のE領域単独で起きるのではなく、安政東海地震のように東海、東南海領域(C, D, E領域)、あるいは宝永地震のように南海地震をも伴った連動型(A, B, C, D, E領域)で起きるとする説もある。
出典:wikipedia
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