デヴィ・スカルノ(Dewi Sukarno、1940年(昭和15年)2月6日 - )は、日本生まれでインドネシア国籍のタレント。インドネシアのスカルノ元大統領第3夫人。NPO法人アースエイドソサエティ総裁。株式会社デヴィーナ・ソサエティ代表取締役。本名・インドネシア名:ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ("Ratna Sari Dewi Sukarno")、旧名・日本名:根本 七保子(ねもと なおこ)、通称はデヴィ夫人。スカルノ大統領との間に生まれた一人娘のカリナは、2005年(平成17年)11月26日にオランダで米系大手金融機関シティバンクの欧州・中近東・アフリカ地区CEOフレデリック・シーガスと挙式している。東京府東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布)に父・兵七郎と母・政子の間に生まれる。父は麻布区霞町界隈の大工であり、弟が1人いた(八曾男)。家庭は裕福ではなく多額の借金をしていた。太平洋戦争中は、母・弟の3人で福島県に疎開していた。15歳だった1955年(昭和30年)、新東宝制作の映画『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(白黒映画)にエキストラ出演。中学卒業後は、東京都立三田高等学校定時制部に進学すると同時に、150倍の難関を突破して千代田生命保険(現・ジブラルタ生命保険)に入社したが、昼休みや休日にも貧しい家計を維持するため、喫茶店などでのアルバイトを掛け持ちし続ける日々を送った。1956年に父が亡くなった事に伴い高校を中退した後、赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働く。1959年(昭和34年)、19歳のときに、インドネシアへの開発援助に伴い「東日貿易の秘書」という名目で、スカルノ大統領のもとに送り込まれた。この一件に当時「昭和のフィクサー」と呼ばれた暴力団関係者の児玉誉士夫が関わっていたとされる。独立後間もない上に、東西冷戦下にあったインドネシアにおいて、当時スカルノ大統領は日本外交や資金援助の取り付け等を非常に重要視していた。インドネシアに渡って数年は愛人の1人であったが、1962年(昭和37年)にスカルノと正式に結婚、4人の夫人のうちの第3夫人になる。しかし、同時期にマスコミの執拗な取材により体調を崩していた母が亡くなった。更にその2日後、セールスマンに全財産を騙し取られたうえ、母の死に目に逢えなかった実弟の八曾男が、自宅アパートでガス自殺し、それを伝え聞いた彼女は「何時までも心を離れない悲しいトラウマになっている」と告白し、後にジャカルタの宮殿の一つに実弟の名をつけた。この宮殿はのちに接収され、軍事博物館になっている。3年後の1965年(昭和40年)9月30日に起きた軍事クーデター、いわゆる9月30日事件でスカルノが失脚、代わってスハルトが大統領となった。スカルノは軟禁状態におかれ、デヴィ夫人はインドネシアの日本大使館に亡命を希望したが、国際的立場上の理由で断念。スカルノの第2夫人を除く夫人は皆、大統領のもとを離れ逃げ切った。1967年(昭和42年)3月11日、都内病院にて娘のカリナを出産する。正式名は「Kartika Sari Dewi Soekarno. Kartika Sari」。スカルノ大統領の8番目の子供であった。デヴィ夫人もフランスへと亡命した。スカルノ元大統領存命中にも関わらず数回の婚約発表が取りざたされたが、結局再婚はしなかった。スカルノ大統領はクーデターを予期し、以前よりインドネシアからスイスへ巨額の資金を確保していたとささやかれるものの、1970年(昭和45年)のスカルノ死去時にスカルノ家、ならびにインドネシア政府から財産の相続の権利や子供のスカルノ一族としての地位などを喪失し、第3夫人としての資産は与えられなかったという噂があるが、実際には死去時に遺産が与えられたという説もある。いずれにしてもその後のインドネシア政府の方針により、第3夫人としての遺産分与が行われた。スペイン人のとつきあうが別れる。そしてフランスの貴族、エルゼアル・ド・サブラン=ポントヴェス()と婚約したが破局した。「社交界の華」とも呼ばれたその容姿で多くの要人らと関係をもったという。1980年(昭和55年)にはインドネシアへ戻り、石油関連事業を興した。しかし、実際にはスカルノ体制崩壊とその後のスハルト政権成立により、元大統領夫人としての外交的立場を失っていたという。また、日本政府や日本の企業財閥側も、クーデターで失脚したスカルノ夫人を擁護することはなかったとされる。1991年(平成3年)にアメリカのニューヨークへと移住する。ここからインドネシアの第一線から退き、その後の政変や第1夫人・第2夫人を中心とした政治の動乱には巻き込まれることもなく、日本に帰国し、現在に至っている。1992年(平成4年)1月2日にアメリカ合衆国のスキー・リゾート地、コロラド州アスペンで、セルヒオ・オスメニャ第4代フィリピン大統領の孫娘のミニー・オスメニャ(Minnie Osmena)の顔をシャンパングラスで殴打し、37針縫う大けがを負わせて傷害罪で逮捕され、禁固60日・罰金700ドルの実刑判決が出て、34日間収監される。動機は、数ヶ月前スペインのイビサ島でのパーティに於いて、ミニーが「フィリピン副大統領になる意志がある」と発表し、デヴィ夫人が吹き出したことから2人の関係が悪化したこと。後に「刑務所での生活は学生寮のようで楽しかった」と語った。その後は日本でタレントとして活躍する。タレント的活動は1970年代より行っており、1974年に小学館の総合男性誌GORO創刊号にデイヴィッド・ハミルトン撮影のヌード写真が掲載されている。新聞の番組欄では、「デビ夫人」と表記されることがある。自身の思想については、その多くが自身のウェブサイト内「デヴィ スカルノの独り言」に記されている。大東亜戦争(太平洋戦争)を肯定する立場ではないが、当時の世情として資源の乏しい日本が対外進出を行うのは当然であり、A級戦犯についても私利私欲で戦争を行ったのではない、としている。日本人は一度の敗戦で精神が打ちのめされ、戦争の罪悪感から抜けきれず、日本人としての尊厳を失っていることが残念であるとしている。戦争そのものはキリストの降誕以前から2009年(平成21年)を迎えようとしている現在においても繰り返され、人類の歴史そのものであるから、たった一度の敗戦で精神を失うことはない、としている。 靖国神社問題における戦死者・戦没者慰霊の問題については、夫のスカルノ大統領も靖国神社に参拝しており、祖国と家族のために亡くなった人を慰霊するのは当然であるとしている。A級戦犯の問題についても、A級戦犯は東京裁判で処刑され、罪があるとしてもそれを既に償っているとして、慰霊に賛成の立場を取っている。日本の全学生は、一度は遊就館に訪れ、自身が日本人であることを自覚し、世界の中で日本がどうあるべきか認識してほしい、と述べている。また、小泉純一郎については、不戦の誓いのもとに靖国神社参拝を行っており、戦後最も傑出した政治家であるとしている。憲法改正論議については、憲法は時代ごとの必要性で改正すべきであるとしている。毎年4兆円をアメリカ合衆国の軍事基地維持費として支払うよりも、アメリカ軍からノウハウを受け継ぎ、日本も防衛軍を作って自国を守るべきであるとしている。皇太子徳仁親王を廃嫡し、皇太子位を秋篠宮文仁親王へ移譲するよう署名運動を行った。インドネシアの大統領だったスカルノの第3夫人にあたる。インドネシア語(マレー語)・仏語・英語に堪能である。数々の美容整形や豊胸手術を行っている。「デヴィ夫人」の芸名で日本のワイドショーやバラエティ番組に出演している。芸能活動以外には、主催チャリティパーティを行っている。大統領夫人時代に親交があった北朝鮮の拉致問題や飢餓問題にも活動している。日本国外においても自身が会長を務めるイブラ音楽財団などを通じて社交活動をおこなう。パーティを催すことがライフワークで、「ビザンチン皇室慈善舞踏晩餐会」には芸能人や在京の各国大使などが出席する。2005年(平成17年)には小池百合子環境大臣が主賓として招かれた。北朝鮮擁護の立場を取っている。朝鮮総連主催の式典にも出席を重ねている。北朝鮮による日本人拉致事件やで北朝鮮を理解する立場からの発言をおこなっているほか、日本と北朝鮮の国交正常化実現を訴えており、。2005年10月31日には、民間の海外支援団体「グローバルレインボーシップ(GRS)」が北朝鮮に対して支援した120トンの米のうち60トンを提供した。2013年3月31日に開催された、朝鮮学校への高校無償化の適用と自治体による補助金支給を要求する集会「朝鮮学校はずしにNO! すべての子どもたちに学ぶ権利を! 3.31全国集会&パレード」では、在日朝鮮人への無償化適用は当然のことであるとし、在日朝鮮人に対する安倍政権の弾圧や排外主義に対して疑問と義憤の念で溢れていると述べた。自身のブログでは、「拉致」は許されないことであり、肯定したことは無いと述べている。またブログには北朝鮮とデヴィに関する悪口雑言なコメントが寄せられているが、そういったコメントをする人達はブログをきちんと読んでおらず、心外だとも述べた。また、「金日成・金正日主義研究」という雑誌によく寄稿している。2012年7月10日、大津市中2いじめ自殺事件に関連して、加害者及びその関係者と思わしき人物らの実名や顔写真とともに女性の写真を公開した上で自身のブログで強く批判した。しかし後に人違いと判明。翌日この写真などは削除されたが、デヴィが謝罪の態度を示さなかったことから、女性はデヴィを相手に1100万円の損害賠償などを求める訴訟を神戸地方裁判所に起こした。2014年2月17日、神戸地方裁判所はデヴィの行為を「非常に軽率な行為」とし、165万円の支払いを命じた。デヴィは判決に対して、不当判決であり最高裁まで争うとしていたが、その後大阪高裁で和解が成立した。和解内容は非公表。2014年1月、TBSのバラエティー番組の収録中に一般の女性出演者を平手打ちしたとしてトラブルとなった。この女性は事前に番組スタッフから番組を盛り上げるように言われたためデヴィを挑発したところ、デヴィに顔を3回平手打ちされたという。その後女性の被害届提出を受けて、警視庁は暴行容疑で捜査を開始した。2014年東京都知事選挙では、元航空幕僚長の田母神俊雄を応援して、共に街頭で演説するなどの活動を行った。選挙期間中には、同年2月7日付の自身のメールマガジンで、登録者に向けて「『田母神 俊雄』と書いて、必ず投票所に行ってください」と投票を呼びかけたため、警視庁から公職選挙法違反の疑いで警告を受けた。2014年3月13日の映画大統領の執事の涙の公開直前イベントで「SNSが解禁になったということで、ブログに書いていいのかなあと思ったら、メルマガは違うということで(警視庁が)ちょっと教えてくださったので、あっそうですかって。私、外国人なので全然知らなかったの」と語った。
出典:wikipedia
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