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札幌丘珠事件

札幌丘珠事件(さっぽろおかだまじけん)とは、1878年(明治11年)1月11日から1月18日にかけて北海道石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村(現:札幌市東区丘珠町)で発生した、記録されたものとしては日本史上4番目に大きな被害を出した獣害(じゅうがい)事件。冬眠から理不尽な形で目を覚まされたヒグマが猟師や開拓民の夫婦を襲い、死者3名、重傷者2名を出した。石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村(現:札幌市東区丘珠町)で起きた獣害事件である。現在の札幌市は人口200万人弱と東北以北最大の都市であるが、事件当時は和人の定住者が現れてから20年あまり、市街地の整備や農地の開墾は急ピッチで進められていたものの、市域を少し出れば原始そのままの大森林や草原に覆われていた。人口は、現在の札幌市中心部にあたる「札幌区」で3000人、後に札幌市に組み込まれることになる周辺の農村すべての人口を合計しても、8000人に満たなかった。1878年(明治11年)1月11日、爾志(にし)通(現在の札幌市中央区南2条)在住の猟師・蛭子勝太郎が郊外の円山山中で、冬眠中のヒグマを発見する。早速狩ろうと試みたものの撃ち損ねてしまい、逆襲を受けた勝太郎は死亡する。理不尽な形で冬眠を覚まされたヒグマは、飢えて札幌の市街地を駆け抜けたため、17日、札幌警察署警察吏の森長保が指揮を執る駆除隊が急遽編成された。同日、豊平川の川向こうに当たる平岸村(現:札幌市豊平区平岸)で件のヒグマを発見し、追撃を開始する。しかしヒグマは月寒村(現:豊平区月寒)、白石村(現:札幌市白石区)と逃走。再度豊平川に向かうルートを取ったため、駆除隊も雪上に残る足跡を頼りに後を追う。そして再度豊平川を渡り、雁来(現:札幌市東区東雁来)までは確認したが、猛吹雪のため見失ってしまった。これらの地は現在でこそ一面の住宅街だが、当時は畑が拓かれ始めたばかりの大森林地帯だった。札幌区の北西部・丘珠村(現:札幌市東区丘珠町)。アイヌ語の「オッカイ・タム・チャラパ」(男が刀を落としたところ)を地名語源とするこの地は後に伏籠川の自然堤防が育んだ良質な土壌を生かしたタマネギ栽培で名を成すことになるが、やはり当時は古木が延々と連なる森林地帯であった。その中に細々と拝み小屋を結ぶ数百人ほどの村民たちは、その多くが札幌区に売り出す木炭の製造で生計を立てていた。明治6年ころこの地に入植した堺倉吉も、そのような開拓民の一人であった。妻・リツと周囲の村民同様に寒風舞い込む拝み小屋の生活に耐えつつ、炭を焼いては札幌区に売り出す生活に勤しむ。やがて夫妻には待望の長男・留吉が生まれ、貧しい生活にも燭光が灯りつつあった。17日深夜、円山から白石、そして雁来へと逃走を重ねた件のヒグマが、突如として堺一家の小屋を襲ったのである。異変を察知して起き出した倉吉は、筵の戸を掲げたところで熊の一撃を受けて昏倒する。妻・リツは幼い留吉を抱いて咄嗟に逃げ出したものの、後頭部にヒグマの爪を受けてわが子を取り落してしまう。リツは頭皮をはぎ取られる重傷を受けつつも村民に助けを求めるが、その間にヒグマは雪原に投げ出された留吉を牙に掛けていた。結果として倉吉と留吉が食い殺され、リツと雇女は重傷を負った。18日昼、件のヒグマは駆除隊によって付近で発見され、射殺された。駆除に功のあった佐々木直則、渋谷永貞、武田守約の3人には、日当50銭のほか特別手当として2円が支給された。加害ヒグマはオスの成獣で、体長は1.9mもあった。警察署の前でしばらく晒し者にしたのち札幌農学校に運び込まれ、教授の指導のもと学生たちの手で解剖された。札幌農学校の第一期生として同席した大島正健は、晩年の昭和12年(1937年)に口述筆記させた回顧録『クラーク先生とその弟子たち』において、当時を以下のように物語る。なお、解剖担当者の中には、農学校の2期生として入学し当時は1年生だった新渡戸稲造も含まれている。このヒグマの剥製は開拓史博物館に仮保存され、明治天皇も見学した。その後、ヒグマの胃の内容物をアルコールに漬けて保存したものとともに、現在でも北海道大学付属植物園に保存されている。事件の跡地は札幌市立丘珠小学校の敷地となった。夫と息子を失ったリツは長らく入院し、不憫に思った行政側は彼女が再婚するまで扶助していた。北海道開拓記念館には、老境に至ったリツの写真が残されている。この写真が撮影された明治43年(1910年)、札幌の人口は8万人に達していた。

出典:wikipedia

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