


『日本暗殺秘録』(にほんあんさつひろく、"Memoir of Japanese Assassinations or Assassination Right Or Wrong" )は、1969年の日本映画。主演 : 千葉真一、監督・脚本 : 中島貞夫、製作 : 東映、カラー・シネマスコープ、142分。昭和44年度芸術祭参加作品。同年の京都市民映画祭では千葉真一が主演男優賞を、笠原和夫が脚本賞を受賞した。日本の暗殺百年史である幕末・明治・大正・昭和の四代に勃発してきた各事件を題材にし、オムニバスでオールスターが出演する大作映画。全篇を通して反体制の純粋かつ美しいエネルギーに満ち溢れ、一殺多生の捨て石精神で時の権力者に立ち向かった若者の姿を描いている。主人公である小沼正(千葉真一)の生い立ちから、血盟団へ加入してテロリストへ変わっていく悲哀と、1932年に井上準之助を暗殺へ至るまでの血盟団事件を中心にした作品である。千葉は主演していたテレビドラマ『キイハンター』を休んで専念し、悩み苦しみながら覚醒していく、青年期の小沼を丁寧に演じた。血盟団の指導者で小沼を導く日蓮宗僧侶の井上日召に片岡千恵蔵、革命を唱える大日本帝国海軍軍人の藤井斉に田宮二郎、小沼が再就職して出会う従業員のたか子に藤純子らを配して脇を固めている。ほかには桜田門外の変・紀尾井坂の変・大隈重信遭難事件・星亨暗殺事件・安田善次郎暗殺事件・ギロチン社事件・相沢事件・二・二六事件を取り上げ、折しも東大紛争・安保闘争など騒然とした世相を反映した作品となった。もともとはテロリストをセミ・ドキュメンタリーで描く予定だったという話と、東映京都撮影所の企画部長である渡邊達人が二・二六事件などの資料をもとに暗殺をテーマにした映画を通してしまった話と、始まりは二説ある。中島貞夫・天尾完次・笠原和夫は、浅沼稲次郎暗殺事件を題材にしようと山口二矢・赤尾敏へ訪問してヒアリングしたが、一本の映画にできないと判断し、止めた。(映画作りの参考に)東大紛争を視察するものの、モチーフ探しに困った中島と笠原は「テロといえば水戸だろう」という思いつきで、桜田門外の変や血盟団事件を生み出した当地へ赴く。取材を重ねた結果、血盟団事件をテーマにしよう、当事者の小沼正へインタビューしよう、と二人は骨子を固める。中島は「人殺しをする情念とは一体何か。本当に情念なのか狂気なのか」、笠原は「実在のテロリストたちが持つ光芒を出したい。ある種、観念的な主題」を描こうと、それぞれ決意していた。しかし大川博の意向により、本作はオールスターで撮ることとなる。血盟団事件をテーマに決めていた中島と笠原にとって、この題材だけでちょうど映画一本分となり、オールスターでは作りようないと思ったが、彼らの出演で予算が潤沢になることもあり、受け入れて進めていく。小沼への取材は3日間通いつめて、ようやく取材ができ、出版されていなかった血盟団事件の公判記録を貸してもらう。小沼以外の血盟団メンバーでは、菱沼五郎・古内栄司・黒沢大二へ取材した。インタビューした内容を検討していくうちに、団体よりも個人へフォーカスしないと映画が成立しなくなると判断し、血盟団事件は一人の青年(小沼正)に絞り込むこととなる。岡田茂は桜田門外の変(幕末)から二・二六事件(昭和初期)に至る暗殺事件を並べ、オムニバスにするよう指示してきた。笠原はこの指定に困ってしまい、筆が進まず往生してしまう。悩める笠原に渡邊は、「どれか一つのエピソードを柱にするしかないんじゃないか」とアドバイス。かつて小沼の検察官面前調書を目にしていた渡邊は、血盟団の標榜する「一人一殺」こそ暗殺の真骨頂と考え、「これ(一人一殺)をテーマにしたらどうだ?」と言い添えた。相談していくうちに笠原は、「血盟団事件の小沼正を中心に、前に桜田門外の変、後に二・二六事件を繋いで描こう」、「血盟団事件は民間人が武器を持って暗殺に走っていく。そこを描きたい」と主旨を定め、執筆していく。クレジットに表記されている「原作 鈴木正 『暗殺秘録』」について、中島と笠原は「(本作に)関わってないはずだし、知らない」と口を揃えており、笠原は「何か問題が起こった場合、追及を逃れるために(原作を)使ったんじゃないかと思う」と述べている。小沼正は小器用な芝居よりも、一途さを出せる千葉真一が配役される。中島貞夫はこの役を「やくざ映画のスターがやるべきでない」と考えていた。血盟団事件を起こしたときの小沼は21歳で、千葉は「30歳ぐらいの自分が、キャスティングされるぎりぎりの線であったと思う」と語っている。小沼の人となりを、中島は「話してるうちに『おまえは左翼じゃねえか』と笑いながら言われたが、どこか気があって可愛がってくれた」、笠原和夫は「風貌はいい人だが、目つきが凄かった」、千葉は「物静かな方」とそれぞれ語っている。藤井斉を演じる田宮二郎は大映との契約を残したまま解雇され、五社協定で他社映画へ出演できずにいたが契約期間を過ぎ、フリーになったばかりのところを俊藤浩滋がスカウトした。本作で映画界復帰を果たす田宮にとって、最初で最後の東映作品となった。井上日召に扮した片岡千恵蔵のキャスティングには二つの話がある。一つは脚本の完成後、オールスター作品のため、どのスターをポスターやクレジットの頭へ持ってくるかということになり、俊藤は片岡を担ぎ出せば、誰も文句言わないだろうと考え、オファーしたというもの。そのためクレジットのトップは片岡、2番目に千葉となっている。もう一つは中島が三國連太郎にしようとするものの、岡田茂が認めずに片岡を据えるよう指示したというものである。俊藤はメインエピソードに藤純子、それ以外の各暗殺事件には鶴田浩二・高倉健・若山富三郎ら、自分の傘下にいた俳優を注ぎ込んでいるが、これは中島が俊藤へ協力を仰いだことによるものであった。撮影開始直前に自由民主党幹事長の保利茂から製作中止を迫る圧力を受けるものの、クランクインする。千葉真一は笠原和夫の勧めもあり、撮影している間は中島貞夫の家へ居候していた。波の荒い大洗海岸の朝日へ向かい、小沼正(千葉真一)が一心不乱にお題目を唱えるシーンは実際に大洗海岸でロケしており、千葉は鼻や耳に砂が入ってきても、カットかかるまで演じ続けていた。小沼の働いていたカステラ工場が倒産し、泣きながら小沼がカステラを火のない竈へ投げ続けることで、正直者がバカをみる世の中の理不尽さを表現するシーンでは、小沼が見学に来ていた。撮影終了後に千葉は小沼から「演技されたとおりの気持ちだった」と声をかけられており、東映ビデオから販売されている本作のDVDには、千葉と談笑する小沼が特典映像で収録されている。働いていたカステラ工場や呉服屋の倒産は事実だが、小沼とカフェーの女給に転身するたか子(藤純子)との交流は、そういう女性やそういう世界に行ったのも事実であるものの、笠原の脚色が入っており、中島は「青年の心情を描こうとすれば、多少の美的なことがないとね」と答えている。本作にはシナリオとは別に中島は、セットやロケの指示、暗殺の年表、政治背景、小沼の証言を80ページほどのテキストにまとめた香盤をスタッフに配布していた。その目的と理由について「本作に思い入れがあったものの、一方でテーマが非常に危険なシャシンであることから、作ることの正当性を自分なりにきちんと決めておかないと、とんでもないことになると思った」と述懐している。東映京都撮影所には井上日召の関係者から、毎日のようにひたすら念仏を読経するだけの嫌がらせ電話がかかってきたり、京撮へ乗り込んでこられ、妨害をされていた。磯部浅一(鶴田浩二)の日記をそのまま(映画へ)採用することに、自民党から「過激すぎる」と待ったをかけられるが、磯部の独白を撮ってしまい、大川博はカットしろと命令。中島は落としどころを探り、内容を変えると歩み寄るが、こんどは笠原が承服しなかった。そのため二・二六事件は中島がシナリオを書くことになり、本作の脚本は共作となっている。1969年の国内興行成績ではベストテンの9位に入ったが、笠原和夫は「題材のせいもあって、あまりジャーナリズムには歓迎されず、ほとんど無視された」と述べている。中島貞夫の意図に反して公開時に観て右翼になった人も多かったといわれ、暗殺史という物騒さと最後の二・二六事件のラストで死刑に処された陸軍将校たちが「天皇陛下、万歳!」と一人一人叫んで殺されていく執拗な描写がまずい、異色の暗殺アクション映画、史実に基づき再現しているものの、テロリストたちの陶酔を大物政治家が暗殺されるシーンで生々しく映し出していることからどうしても反権力的な空気が漂っている、などの論評がある。明治天皇の暗殺を目論んだ大逆事件も映像化する予定だったが削除されたという指摘に対して、笠原は「大逆事件は無実だったし、爆弾を持っていたけど行為はしてないわけで、それでも摂政宮だった昭和天皇を狙うという話はいくらなんでも映像にできない」と否定した。血盟団のメンバーで小沼正は本作を観て泣いていたが、菱沼五郎が観たかどうか知らないし、感想も聞いていないと中島は話している。
出典:wikipedia
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