北山村(きたやまむら)は、和歌山県東牟婁郡の村である。和歌山県に属しながら、周囲を奈良県と三重県に囲まれており、都道府県単位の飛地がそのまま領域になっている、日本では唯一の自治体である。紀伊半島南部の山間部に位置している。平成の大合併で他の村が消滅した結果、和歌山県で唯一の村となった。離島を除くと、高知県土佐郡大川村に次いで人口の少ない村である。紀伊半島南部の山間部に位置している。その村域の約97%が山林地帯であり、三重県熊野市との境を流れる北山川沿いにある村の南端部分に小さな集落が点在する。古来よりこの辺りで木材を切り出し、北山川に流して下流の新宮で商人がそれを受け取り売るという形態でこの辺りの人々の暮らしが成り立っており、新宮との結びつきが強く江戸時代にはこの地域は紀州藩新宮領に属していた。廃藩置県で新宮が和歌山県に入ると、この村は新宮との結びつきの強さゆえに和歌山に入ることを望み、それが叶った結果、飛び地村が出来た。1889年(明治22年)に自治体として発足して以来この村に合併などは一切なく、飛び地ゆえに人口が少なくとも一村を維持してきた。筏は大台ケ原方面から新宮まで北山川を流し運ばれ、北山村大沼付近が中継点となっていた。上流の筏師はここから引き返し、下流は北山村の筏師が引き継ぎ、夏場は2日程度、冬場は3日程度かけて新宮まで材木を運搬していた。北山川でも北山村から瀞峡付近までが最大の難所とされた。現在の北山川観光筏下りの最初の瀬であるオトノリはかつて弟乗りといわれ、後継ぎの長男は乗らないといわれた逸話がある。ここを乗り切る北山村の筏師の櫂さばきは筏師の華とされていた。北山川の筏師の技術は国外でも評価され、鴨緑江まで請われ出稼ぎに行った話も伝えられており、鴨緑江では馬賊に襲われたことがあるといわれている。命がけで材木を新宮港まで運ぶ筏師は非常に高収入だったといわれ、新宮まで下ると高額な報酬を手にすることができたが、新宮で豪快に遊んで帰ったため資産は蓄えなかったともいわれている。しかし、食糧難だった当時、宿泊する宿では食料を持参してくるため、筏師は大喜びで迎えられたようである。昭和40年代に入りダムが建設され、筏師は姿を消したが、昭和54年に北山川観光筏下りとして筏流しが復活し、当時の筏師が復帰、再び活躍の場が与えられた。ダム建設により、熊野市までの道路が整備され、現在はむしろ三重県の熊野市などとの結びつきが強くなった。三重県の市町村との合併により和歌山県の飛び地でなくなろうという動きも見られたが、住民投票の結果和歌山県に残った。2005年に多く行われた市町村合併のときは、新宮市に合併する具体案があったが、直前に中止になった。大沼地区、下尾井地区、竹原地区、七色地区、小松地区に分かれていて各地区を北山川に沿って国道169号が結んでいる。以下各地区について詳述する。1980年代初頭に村内では小中学校の統合が進められた結果、小学校が村立北山小学校、中学校が村立北山中学校だけになり、高等学校および大学などはなく、小中学校を合わせても2校だけになった。なお、北山小学校と北山中学校は同敷地内に併設されている。かつて北山川上流のこの地から木材を筏で流して下流の町に運んでいたことにちなんだ北山川の観光筏下りも知られる。
出典:wikipedia
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