吉岡 雄二(よしおか ゆうじ、1971年7月29日 - )は、東京都足立区出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)、プロ野球監督。現在は富山GRNサンダーバーズの監督。からまでの登録名は「吉岡 佑弐」(読み同じ)。東京都足立区立第十四中学校卒業後、帝京高校へ入学。高校時代はエース投手であった。の第61回選抜高等学校野球大会では同校は優勝候補の筆頭に挙げられたが、1回戦で報徳学園高校に敗退。その悔しさをバネに第71回全国高等学校野球選手権大会では優勝の立役者となった。全5試合に先発し、3完封。41回を投げて失点はわずか1だった。高校通算で51本塁打を放っており、打者として注目したプロ球団も多数あった。同年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから3位指名を受けて投手として入団。ルーキーイヤーのに右肩を手術し、リハビリに2年を費やした。のシーズン終了後に内野手に転向。同時期に監督に就任した長嶋茂雄が期待を表明した。はイースタン・リーグで本塁打と打点の二冠王に輝く。にチームが優勝戦線から脱落するとスタメンの機会を与えられ、短期間で満塁本塁打2本を含む4本塁打を放ち翌年のレギュラー候補となる。の開幕一軍入りを果たすもジェフ・マントの獲得などにより開幕からベンチ入りしていながら初打席は開幕10試合目での代打であった。マント解雇後は仁志敏久の三塁コンバートにより、前年よりも出場を減らす結果となった。1月に石井浩郎との交換トレードで石毛博史とともに近鉄バファローズへ移籍。野手転向から近鉄移籍直後までの間は、控え選手として不規則な出場機会と自らの調子をあわせることがうまくいかなかったことについて、その後の現役時代に振り返っている。移籍2年目のに一塁手のレギュラーに主に7番で定着し、規定打席に未到達ながら、前年までの通算7本塁打を上回る13本塁打を放つ。さらに、翌は、プロ入り10年目にして初めて規定打席に到達し、チーム最多の12盗塁を記録した。、新たに監督に就任した梨田昌孝から「吉岡は2割7、8分、25本塁打は打てる男」とキャンプ中から期待され、オープン戦は.500近い打率と調子がよかったが、4月3日にブレイディー・ラジオから受けた死球で、骨折は免れたものの重傷の怪我をしてしまい、その後太ももも負傷、開幕から出遅れてしまった。7月9日に5番だったクラークが骨折した後は7番から5番に昇格し、打率.290、自己最多となる18本塁打とクラークの穴埋めとして活躍した。は3月31日の西武戦、6月22日のダイエー戦、9月11日のロッテ戦で、同僚の中村紀洋と並ぶ年間3本の満塁本塁打(通算26人目で通算28度目)を放った。なお、6月22日の対ダイエー戦では、二塁打を打てばサイクル安打達成という場面で満塁本塁打を放ち、第5打席でシングルヒットを打ったため、サイクル安打達成はならなかった。この年は、自己最高の26本塁打、85打点を記録し、6番打者として勝負強いバッティングでパ・リーグ優勝に貢献。リーグ優勝を決めた9月26日の対オリックス戦では、中盤にリードを許す痛恨の2失策を犯したものの、9回裏の先頭打者として大久保勝信から左前安打を放ち、北川博敏の劇的な逆転サヨナラ満塁本塁打を呼び込んだ。しかし、日本シリーズでは第3戦の7回表に安打を記録したのみの17打席で1安打と抑え込まれ、同シリーズで無安打に終わった5番の礒部公一とともに大きな誤算となった。翌も26本塁打を放ち全試合に出場。初めてオールスターゲームに選出された。は5年連続で規定打席に到達し、自身初の打率3割をマーク。しかし、欠場試合数が多かったことやチャンスでの凡退が多く打点が60打点に留まったことを理由に、オフに減俸を受け入れている。直球に強く、1998年から6年連続2桁本塁打を記録し、近鉄バファローズで通算116本塁打を放つ等、いてまえ打線の一員として活躍してきた。しかし、は3月14日のオープン戦の対ヤクルト戦で、安打を放って一塁ベースを回った際にアキレス腱断裂の重傷を負い、ほぼ丸1年を棒に振る。チームの本拠地最終戦である9月24日の対埼玉西武ライオンズ戦で代打で出場し、豊田清からライトフライを放ったのがこの年唯一の打席だった。11月、球団合併に伴う選手分配ドラフトで、自身の希望通りに新規参入球団である東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍。楽天の一員としてプレーするにあたり、報道陣からかつて仙台育英の全国制覇を阻んだことに触れられて、「今度は仙台を優勝させるために頑張りたい」と答えたという。は、広角に打ち分けるバッティングスタイルから、2年ぶりに規定打席に到達して、チーム最高の打率.282、チーム最多の23二塁打を放ち、チーム2位の52打点を挙げ、チーム創設1年目の手薄な野手陣にあって、3番打者として活躍。一塁手としての守備も、リーグ3位の守備率.994と堅実かつ無難にこなした。は前半戦で33試合に出場したものの、故障したアキレス腱の調子と付き合いながらのためか、極度の打撃不振に陥り一軍登録を抹消された。二軍でバッティングフォームの改造に着手。ここでは、「バットを真っすぐに立て、グリップを低い位置で構えていた以前のフォームを一新し、バットを寝かせてグリップを高く構えるようにした」フォームで、一軍に再昇格。8月26日にタイムリーを含むマルチ安打を記録した。その後は復調の気配を見せたものの、またしても不振に陥り、再度一軍登録抹消。結局、0本塁打という不本意な成績に終わった。は開幕は二軍スタートもファームでは好成績を残し、7月3日付で一軍に登録され、7月11日、オリックス21回戦(フルキャストスタジアム宮城)で代打で出場し、プロ422人目の通算1000試合出場を達成した。は、7月27日のオリックス戦で、同点で迎えた9回表に代打で出場し、菊地原毅から決勝の適時二塁打を放ったが、12試合の出場に留まり、シーズン終了後の10月に戦力外通告を受けた。現役続行を希望し、11月に12球団合同トライアウトを受けたものの獲得球団はなかった。その後は米球界に挑戦するため2月に渡米するも契約がまとまらず、4月にメキシコ入り。メキシカンリーグ数球団のテストを受け、ヌエボラレド・オウルズ(テコロテ・ヌエボラレド)に入団。同リーグで日本人野手の契約は初めて。メキシカンリーグでは打率.280、5本塁打37打点の成績を残した。2009年限りでヌエボラレドを退団。はメキシコ国内の野球アカデミーで指導を行っていたが、12月に現役引退を表明した。1月、四国アイランドリーグplus・愛媛マンダリンパイレーツの打撃コーチに就任、3シーズン務めた。2013年11月、来シーズンの契約辞退を申し入れ、辞任した。その後、12月4日にベースボール・チャレンジ・リーグ・富山サンダーバーズの監督に就任することが発表された。
出典:wikipedia
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