内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん、)とは、内閣の首長で、国政の最高責任者。文民である国会議員の中から国会の議決により指名され(首班指名)、天皇が任命する。略称は「総理大臣」「首相」。内閣の首長として強い権限を持つと同時に、与党党首として立法と行政の両面で強力な指導力を行使できる立場にあり、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務や外交について国会に報告し、行政各部を指揮、監督するなどの強い権限を持っている。さらに、自衛隊の最高指揮官でもある。現任は安倍晋三。内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決(首班指名)でこれを指名する(憲法67条1項)。指名の資格要件は国会議員であることと文民であることである。指名選挙は衆議院と参議院の両院で行われ、両院の指名が食い違った場合は両院協議会が開催されるが、両院協議会で成案が得られない場合は衆議院による指名が国会議決となる。過去に両院協議会が開かれた例はあるが、成案が得られた例はない。また、実例は無いが、衆議院の指名後10日を経ても参議院が指名を行わない場合は衆議院による指名が国会議決となる。事実上、衆議院の多数勢力の意向の通りに指名がなされる仕組みである。指名の結果は、直ちに衆議院議長が職務執行内閣を経由して天皇に奏上する。先例では別途衆議院議長が皇居で指名の経過を天皇に直接報告する。天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する(憲法6条1項)。内閣総理大臣の任命は天皇の国事行為の一つであり、既に内閣総辞職した前内閣が、憲法71条に基づく職務執行内閣としてこれに「助言と承認」を与える。親任式には両院の議長が参列し、天皇が口頭で任命の旨を新首相に伝えた後、首相が交代する場合は職務執行内閣の首相が新首相に官記を手渡す。首相が再任される場合は職務執行内閣の国務大臣が官記を手渡す。#辞令の書式節も参照。憲法上、内閣総理大臣の任期について直接的に規定した条文はない。憲法では衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は総辞職をしなければならないとされているので、このことから内閣総理大臣の一回の任期は次の衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集が行われる時までとなり最長でも4年を超えないことになる(憲法第70条)。もちろん、この規定は新たに召集された国会において再選されることを禁じるものではないので、制度上は国会議員として首班指名を受け続ける限り内閣総理大臣を続けることができる。ただ、通常、内閣総理大臣は与党党首の地位を前提として与党議員からの信任を得ているが、その政党の内規で党首職に再選制限が設けられている場合、その年限が事実上の任期の上限となることがある。内閣総理大臣は以下の機関を所管し内閣法にいう主任の大臣を務める。各府省等のほか、特定の法律に基づいて内閣に設置される「本部」等にも、「主任の大臣」が置かれることがあるが、この場合の「主任の大臣」には、いずれも内閣総理大臣が充てられる。主任の大臣#本部等を参照。日本国憲法及びその他の法令が規定する内閣総理大臣の主な権限は次の通り。つまり、国家行政の最高責任者でもある。このほか、内閣府及びその外局(金融庁、消費者庁など)や内閣に置かれる本部等の主任の大臣として、審議会委員等の任免権や各種許認可権を有する。特に、内閣府の外局の一つである金融庁に関連する許認可権が多い(銀行法や貸金業法、金融商品取引法など)。1991年までは、機関委任事務に従わない都道府県知事について、司法手続きを経て罷免する権限を有していた(地方自治法旧第146条)。2001年には、閣議における内閣総理大臣の発議権が法制化(内閣法第4条の改正)され、各省に対する指揮監督権が強化された。明治維新以降、当初は五箇条の御誓文に示された「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の方針に則り、旧来通りの太政官制度によって行われてきた。しかし、奈良時代から続くこの政体は古色蒼然としていて新時代にはそぐわないものであったばかりか、制度面においても、天皇を輔弼するのは太政大臣・左大臣・右大臣であり、これによって「指揮」される参議と各省の卿には輔弼責任が無く、また太政大臣が極度に多忙なかたわら左右大臣の職責は不明瞭という、迂遠かつ非効率なものであった。1880年(明治13年)頃から参議伊藤博文はこの「太政官制」の改革を提唱し始めたが、保守派の右大臣岩倉具視が反発した。当時の伊藤博文には重鎮たる岩倉具視に対抗するだけの政治力がなかった(明治十四年の政変による大隈重信追放は、岩倉具視が宮中を動かして進められたために、伊藤博文も岩倉具視との衝突によって「第二の大隈」になる可能性があった)。そのため、伊藤博文は一旦この提案を引き下げて1882年(明治15年)3月から伊東巳代治、西園寺公望らとともに渡欧し、ドイツ、オーストリア、イギリスなどで憲法を含む立憲体制の調査に当たったが、この時から「文明諸国と同等の政府」の骨格が具体的に構築されていく。そして、岩倉具視の死後に帰国した伊藤博文はドイツで研究した立憲体制に則した政治体制構想の実施を進めようとした。これに対して、岩倉具視と同じく保守派の太政大臣三條實美らは、右大臣に伊藤博文を充てるという人事改革案で応酬した。しかし伊藤博文はこれを丁重に断り、代わって黒田清隆を推したが、今度は酒乱の気がある黒田清隆に保守派が尻込み、結局この「改革合戦」は引き分けに終わった。その後も伊藤博文等はこれに怯まず「内閣」制度を提案し、「君主立憲政体なれば、君位君権は立法の上に居らざる可からずと云の意なり。故に、憲法を立て立法行政の両権を並立せしめ(立法議政府、行政宰相府)恰も人体にして意想と行為あるが如くならしめざる可からずと云」という伊藤博文の語録にあるように、憲法とセットして近代的内閣制度を突き付けられては、保守派も反対の名目がなく、伊藤博文の意向が通る形となった。1885年(明治18年)12月22日に、「太政官達第六十九号」が発せられ、「太政官制」「太政大臣」に代わって「内閣」と「内閣総理大臣」が設置され、ここに内閣制度が始まった。「内閣」の組織には宮内大臣は含まれないことが明記され、「宮中(宮廷)」と「府中(政府)」の別が明定され、行政責任を各省大臣が個別に負う体制の基礎が生まれた。このとき同時に制定された内閣職権においては、「内閣総理大臣」には「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督ス」(二條)と、最初は強力な権限を与えられていた。1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が発布されるが、同法においては「内閣」や「内閣総理大臣」について直接の規定は明記されず、同第55条において「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」と明記されたのみであった。また、同時に「内閣職権」を改正する形で制定された「内閣官制」において「内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」(2条)と、その権限は弱められた。権限としては、「内閣総理大臣」は「同輩中の首席大臣」として天皇を輔弼する存在とされ、「内閣」は各大臣の協議と意思統一のための組織体と位置付けられた。したがって、いったん閣内に意見の不一致が起こると、内閣総理大臣は各大臣の任免権が無く大臣を罷免することは出来ず、説得や辞任を促すことくらいで、これが失敗すれば内閣総辞職するしかなかったのである。事例として東條内閣の総辞職原因は、国務大臣の岸信介が辞職を拒否したことによるものであり、また第2次近衛内閣は、外務大臣の松岡洋右を更迭するために総辞職という手段を使わざるを得なかった。また、明治の一時期と昭和初期から終戦まで規定されていた軍部大臣現役武官制によって、組閣は軍による制約を受けた。特に陸軍は内閣が自らの意向に沿わない場合には、陸軍大臣を辞任させたうえで後任を推薦せず、これによって第2次西園寺内閣・米内内閣が崩壊し、宇垣一成が組閣を阻止された。地位としては、皇室儀制令においての宮中席次は大勲位についでの地位にあり、枢密院議長よりも格上とされ、儀礼上では府中の最高位と位置付けられていた。任免については、内閣総理大臣は、各国務大臣同様に天皇により任命され(大命降下)、その選出方法については法令によって規定されなかった。明治初期~昭和初期までは、元老による推薦に基づいて任命されていたが、そのうち大正末期~昭和初期にかけては、大正デモクラシーによる政党政治が基本となり、衆議院での第一党の党首が推薦され、任命されていた(憲政の常道)。その後、「最後の元老」西園寺公望の老衰に伴い、昭和初期~終戦までは、「重臣会議」の奏薦によって任命されている。1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法が公布され、同第66条に「内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する」と明記され、初めて憲法に明記され規定された。これに伴い、翌1947年(昭和22年)1月16日に施行された内閣法では、「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する」()など、その権限は大幅に強化された。。日本国憲法下の内閣総理大臣は、閣内に意見の不一致が起こった場合は、罷免して自らの意見を通すことができる。また何らかの理由で大臣が突然辞職しても、内閣総理大臣はその後任を任意に任命することができる。この顕著な例が衆議院解散権である。憲法上、衆議院の解散は内閣の助言と承認により天皇が行うことになっているが(7条3号)、これはつまり「解散権は内閣に属す」ということで「閣議決定なしには解散はできない」ということであるが、一般に「解散権は内閣総理大臣の専権」と解釈されているのは、解散に反対して閣議書への署名を拒否する大臣がいたとしても、内閣総理大臣はその大臣を罷免した上で、自らが兼務して閣議書へ署名することができるからである。仮に全閣僚が反対したとしても、内閣総理大臣はすべての大臣を罷免・兼務してでも解散を閣議決定できる(一人内閣)。したがって、内閣総理大臣が解散を行うと決めた場合、これを阻止する手立ては法令上はないのである。このように、大臣に対する任意の罷免権の効果は極めて大きい。内閣制度発足当時から、内閣総理大臣の略称として、一般に「首相」がよく用いられるが、このほかにも、「総理大臣」や「総理」との略称も用いられる。現代ではまれだが、「宰相」が用いられることもある。公式の英語表記は「Prime Minister」である。この英訳は当初から固定していたものではなく、かつては「Minister President of State」(「国の大臣の総理(議長)」の意味)との訳語も用いられた。内閣制度移行に際し、誰もの関心は誰が初代総理大臣になるかであった。衆目の一致するところは、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三條實美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤博文だった。しかし三條は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の一つ三條家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出であり武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は、「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三條を支持する保守派の参議も返す言葉がなく、あっさりこれで決まってしまった。初代総理を決めた最大の要因は「英語力」だったのである。伊藤の内閣総理大臣就任に伴い、三條は内大臣として宮中に回り、天皇の側近として明治天皇を「常侍輔弼」することになったが、そもそも内大臣府は三條処遇のために創られた名誉職で、実際ははしごを外したようなものだった。これに対して、かつて三條に仕えていたことがある尾崎三良(元老院議官)は、三條に対して強く抗議すべきであると進言したが、三條は「国家将来のためのことであり、私自身の問題ではない」として、尾崎に対して軽挙を戒めている。また、明治天皇もさすがにこの処遇を気の毒に思ったのか、1889年(明治22年)10月25日に第2代内閣総理大臣の黒田清隆が条約改正をめぐる政局混乱の責任を取って内閣総辞職した際、天皇は黒田の辞表をのみ受理して他はすべて却下し、三條に内閣総理大臣を臨時兼任させた。これは臨時「代理」ではなく、「兼任」であり、しかも天皇が次の山縣有朋に組閣の大命を下したのはそれから2ヵ月も経ってからのことだったので、この2ヵ月間は一つの内閣が存在したものとして「三條暫定内閣」と呼ばれる。ただし、正式には三條實美は歴代内閣総理大臣には数えないことが慣例となっている。現職内閣総理大臣が選挙で落選した例はない。中選挙区制時代、歴代の現職内閣総理大臣は1位当選することが殆どであったが、唯一中曽根康弘のみ1983年と1986年の2回の衆院選で2位当選になっている(1位は福田赳夫)。内閣総理大臣経験者が国政選挙で落選した例として片山哲(1949年・1963年)と石橋湛山(1963年)と海部俊樹(2009年)の例がある。また、菅直人(2012年・2014年)は小選挙区で落選し、比例復活当選をしている。細川護熙(2014年)は政界引退後に東京都知事選挙に立候補し、落選した。歴代の内閣総理大臣には旧制東京帝国大学出身者が多いが、後身である新制東京大学の出身者は、工学部計数工学科を卒業した鳩山由紀夫のみである。また、新制の国公立大学出身の内閣総理大臣としても鳩山が初めてである。田中角栄は学制上での最終学歴は高等小学校卒業である。また、近代教育での学歴を持つ最初の内閣総理大臣はソルボンヌ大学に留学した西園寺公望。内閣総理大臣は国会議員から選出されなければならない。法理論上、衆議院議員の被選挙権を得る25歳から就任することができる。法的には、衆参いずれの議院に属するかを問わず、国会議員であれば誰でも指名される可能性はあるが、政治経験等が重視されることが多く、1年生議員が就任する確率は極めて少ない(細川護煕が1993年に衆議院当選1回で首相に就任しているが、就任以前に参議院議員・熊本県知事の経験があった。また吉田茂は1948年に衆議院当選1回で首相に就任しているが、この就任以前に貴族院議員や外務大臣・首相の経験があった)。日本の歴代総理大臣の中で最年少記録を保持しているのは、1885年の初代伊藤博文(当時44歳)で現在も破られていない。歴代最年長就任記録は1945年の鈴木貫太郎(当時77歳)で、最年長在任記録は大隈重信(当時78歳)である。戦後最年少としては、2006年の安倍晋三(当時52歳)である。戦後最年長就任記録は幣原喜重郎の73歳だが、新憲法の範囲では石橋湛山の72歳3ヶ月。内閣総理大臣経験者に対する栄典については、在任期間に応じ、位階は従一位、正二位又は従二位、勲等勲章は大勲位菊花章頸飾、大勲位菊花大綬章又は桐花大綬章(旧・勲一等旭日桐花大綬章)のいずれかに叙される(在任1年9ヶ月の小渕恵三は大勲位菊花大綬章に叙されている)。ただし、辞退・不祥事等により見送られることがある(例:田中角栄・宮沢喜一)。(内閣総理大臣の氏名の後の年は就任した年)総理大臣に就任してもおかしくない大物政治家でありながら早世などの理由で就任に至らなかった人物を「幻の総理大臣」と呼ぶことがある。福田和也「総理の値打ち」(文春文庫)・御厨貴編「歴代首相物語」(新書館)など歴代首相総覧の類では定番の項目となっているほか、浅川博忠「自民党・ナンバー2の研究」(講談社文庫)・小林吉弥「総理になれなかった男たち」(経済界)など「幻の総理大臣」を特集した書籍も出版されている。いろいろな人物が名前を挙げられるが、福田・御厨・浅川・小林がすべて挙げている人物として緒方竹虎と河野一郎、戦前も扱った福田・御厨がともに挙げている人物に井上馨・後藤新平・宇垣一成がいる。このほか、「辞退さえしなければ首相になれた」人物、すなわち徳川家達や伊東正義のように次期首相として推挙されながら辞退した人物も存在する。裁可を表すため、この書面に天皇は自ら「可」の文字の印章を押印する。歴史発足・組織・形態国会施設・設備その他
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